世界で注目のダンサーの“内なる自分を探す旅” 大きな転換期は「今」

チリ・サンティアゴ市内のとある道場で、居合道初心者でありながら異彩を放つ日本人女性がいた。柔軟性に富んだしなやかな身体と、とても朗らかな表情をする人柄で、意図せずとも周囲の視線を集めてしまう。

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伊藤郁女(いとう・かおり)
日本を飛び出して全世界的に活躍する、ダンサーであり振付家。
映画の撮影でチリに1ヶ月半滞在していたのだ。


「仕事の関係で1ヶ月ごとに居住地が変わることが多いです。自分が家ですね。」と、彼女はハウルの動く城ばりに止まることを知らない。

インタビューに向けてそわそわと身構えていた私とは対照的に、目の前に現れたのは…
まさに「自然体」な女性。
発する言葉の一つ一つに、「飾り」がなく、潔い。
時にハラハラさせられるほどの切れ味で、物事を切り分けていく。

彼女のストレートな言葉に触れるうちに、インタビューさせて頂く立場であるはずの私も、自然と熱く自分の思いを語ってしまっていた。何がそうさせたのか?


 彼女には、飽くなき自己、さらには人間への探究心があった。
 そして、自己を見つめ続けてきた人間ゆえの、強い信念があった。


その内からの魅力に、知らず知らずのうちに影響されてしまっていた。

そんな彼女が、心からの「産地直送」の言葉で「今」の自分を語ってくれた。
新鮮なうちにお届けいたします。


▼前回の記事
何が世界的ダンサーにさせたのか。彼女のこれまでを丁寧に訊いた。
「芸術家に必要なのは「自分を信じること」。世界的ダンサー伊藤郁女が語るシンプルな答え」

Profile 伊藤郁女(いとう・かおり)
1979年生まれ。5歳からクラシックバレエを高木俊徳に師事。18歳で振付を始め、98 年、STスポット「ラボ20」にて、榎本了壱賞を受賞。ニューヨーク州立大学サニーパーチェス校ダンス科に留学、グラハム、カニングハム、ホ-トン、リモンテクニックなどを学ぶ。立教大学教育学科卒業2002年、横浜ダンスコレクションにて、「財団法人横浜市文化振興財団賞」を受賞。2003年、フランス人振付家フィリップ・ドゥクフレによる『IRIS』で主要なソロパートをつとめる。04年、横浜ダンスコレクションで「ナショナル協議員賞」を受賞。文化庁海外派遣員としてアルビンエイリーに留学。ナイニ・チェン・ダンスカンパニー(ニューヨーク)などと踊る。05年、ベロニク・ケイの作品『ライン』(村上龍作)に出演。フランスの国立振付センターにて、振付家アンジュラン・プレルジョカージュと活動を始める。07年、ジェイムズ・ ティエレ(チャーリー・チャップリンの孫)の作品『Au revoir parapluie』に参加。09年、2008年、自作『ノクティルック』をスイス、フランスなどで公演。09年、『SOLOS』をマルセイユ国立劇場で発表。ギー・カシエース演出、シディ・ラビ・シャカウイ振付のオペラ『眠れる美女』(川端康成原作)でソリストとして出演。10年、アラン・プラテル『Out of Context』に出演。自作『Island of no memories』でフランスの振付コンクール、(ル)コネッセンス1位を受賞。2010年、同作品を彩の国、埼玉芸術劇場で公演。2011年、『Island of no memories』をEDN(European Dance Network)の援助を受ける。コメディ・フランセーズの俳優ドニー・ポダリデスと『ジキルとハイド』の作品にハイド役で出演。新人振付家賞、JADAFO、フォーラム賞を受賞。12年オレリアン・ボリ演出『Plexus』(伊藤郁女のための作品)に振付、出演。
13年アランプラテルのカンパニー、les ballets c de la b が自らの作品 『ASOBI』 をプロデュースし、日本のDance New Air でも公演し、セゾン文化財団からも助成を受ける。2014年笈田ヨシ演出、『Yumé』を振付、出演。ジュネーブのバレエ・ジュニアーに振付をする。

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活動拠点はヨーロッパ
南米チリへの布石は とある作品を作った時から打たれていた



— 先週バッタリ居合道の稽古でお会いして、このインタビューも急遽実現したわけですが、今チリにはどんなお仕事でいらしているのでしょうか?

伊藤:86歳のチリ人映画監督のアレハンドロ・ジョドロフスキーが以前、私の『イチゴのお菓子』という作品を観にきたんです。私は太ったおじさんにしがみついている役だったのですが、それを好きだと言ってくれて、そのまま自身の映画の中に取り入れたいというお話を頂きました。本当に、映画の中でも太ったおじさんにしがみつく役を演じさせてもらっています。


 映画の共演者には、「ヨーロッパにコンテンポラリーダンスを運んできた」と言われているキャロリンカールソンというアメリカ人女性が、72歳にも関わらず踊るシーンがあります。映画の中で「魔女」って言われているんですが…、すごく役柄がピッタリで見応えがありますよ!

 そのほかにも、チリでは Ballet Nacional Chileno(BANCH)というチリの国立バレエ団とも仕事をさせて頂いていて、そこでも20名ほどのバレエダンサーと作品作りをしています。来年4月に公演を開くので、ダンサーのオーディションなど準備をしています。


世界を渡り歩いてきた彼女流
内から出る表現力を放つためのエクササイズ



— ひとつの仕事がまた次の仕事に繋がっていく感じがしますね。具体的にはどんなオーディションをされているんですか?

伊藤:私が練習やオーディションの中で行なうのは“日本っぽくないエクササイズ”です。ちょっとセラピーっぽいかもしれません。今やっているのは、はじめにタブー(しちゃいけないこと)をみんなで紙に書いて出し合います。

 例えば、劇場の中でしちゃいけないこと。裸になるとか、叫ぶ、おしっこするとか…やっちゃいけないことをみんなで出した後、実際にそれをやるんです。

— ………え?!やるんですか?!?!?!(笑)

伊藤:リスクを負いながらどうやってみんなで成長していくか。音楽かけてみんなで出し合うんです。他にも椅子を置いて一人ずつ歩いて座るエクササイズとかね。その座る動作を一人一人私が見ていくんですけど、チリに来て感じたのは自分を隠して表面的にやる人が多いんです。表現力を内からではなく外から得るものと思って自分をかばう様にして表現してしまうんですね。

 そういう時は手を叩いて「もう1回やってください!」って中断して、できるようになるまで再度やってもらいます。24〜30歳くらいの男性も泣きながらやることもありましたよ。このエクササイズによって、自分に何が必要かを見つけていくという作業を行うんです。同時に、振付家としてそれぞれのダンサーの表現力を知る良いエクササイズになるんです。


コンテンポラリーダンス
一体どのような世界が広がっているのか



— バレエのエクササイズとは大きく違いますね。

伊藤:そうですね。コンテンポラリーダンスは自分の好きなことをやり、やりたいように踊る。自分の生き方・世界の見方の問題をダンスに表現するから、作品の作り方や世界観はプロジェクトや作る人によって変わってきます。

— 自閉症の方々とも作品を作られたと伺いましたが、どのような経緯があったのでしょうか。

伊藤:私は愛知県の豊橋(とよはし)出身で、豊橋の劇場の方から「小学校の自閉症の子たちとワークショップをして下さい」と依頼されて行くことがありました。それをきっかけにして、フランスでも自閉症の方々と作品を作るようになったんです。

— フランスではそういった作品がよく見られるのでしょうか。

伊藤:そうですね。自閉症の方々はすごく無防備で、こちらが考えられないことを表現するから面白いんです。そういう自閉症…身体障害者の表現の仕方「体が表現しなければならないこと・体が勝手に表現すること」を研究している知り合いのベルギーの振付家もいますよ。

 最近はみんな、スマートフォンでFacebookを見たり…指先だけを動かしているような生活ですよね。そういう普段の生活を送りながら劇場の未来を考えると、指先だけ動かして生活している様な私たちに、身体障害者の方たちが「なにか特別なもの」を与えてくれるんじゃないかなぁと思うんです。彼らから学ぶことが沢山あると思って取り組んでいます。


「自分なりのビジョン」への 複数からのアプローチ


— チャレンジが広がっていますね。ダンスや振り付けの他にも、写真やペインティング、映画製作なども行っていらっしゃると伺いました。

伊藤:そうですね。結局、アーティストって探しているものが明確だと、形式がどうのこうのって変わっても、絵を描いても何をやっても「探しているものは同じ」じゃないですか。動物的な目に見えないものを探しているので、それを探すのにどんな形式で探してもいいと思っているんです。

フランス芸術界の厳しい常識
複数ジャンルからのアプローチに対する批判



伊藤:けれど、フランスではみんなそれを批判するんです。ダンサーとして見られてきた私は、ダンサーのプロだから、振付家としては認めてもらえない。結構厳しいんです。

 その他にもフランスのそんな古臭さを感じる場面がいろいろありますよ。例えば、夕食を食べるときには、大体みんな政治の話と歴史の話、劇場の歴史の話と閣下の話…、誰が何年にどういうことをやったとかっていう話をする。人と話すときには、世間話はそこそこに、初めに自分が何者であるか、自分のできることや領域を紹介します。相手は私の話し方や知識があるかどうか、知らないことに対する振る舞い方などを見るんです。

 それらは文化のサポートをしている国、文化の歴史が深い国だからなんですが、その「歴史」というものが、例えばそうやってダンス以外の表現に取り組むというときになって邪魔になったりもするわけです。


 アーティストにとって中でもそうした文化を如実に感じるのは「クラス」です。クラスは、ルイ14世から歴史的に続いているとても古臭い組織で、有名になればなるほどクラスに上がります。

 私は10年かかりましたが、フランスでアーティストとしてクラスの一員に認められるようになりました。
 自分がそういうクラスに入ってみると、突然物事がシンプルになるんです。フランスの大統領が自分の作品を見に来たり、食事に誘って頂くこともありますし、様々な組織が後ろ盾になってくれたり、手厚いサポートがあります。

 クラス以外にも、フランスには様々な表現を生業とするアーティストへの社会保険制度があって、それはアーティスト自身に職業がない時には、国から保険料を払ってもらえるシステムがあります。規定の時間以上働くと、そういった権利がもらえるんです。

 そんな風にいい面も大変な面もありますが、フランスの芸術界の歴史が古いことがそのように色々な場面で感じられます。

ニューヨーク芸術界のマーケティング思考


— ニューヨークからパリに拠点を移されたのも、そうしたフランスの芸術界に魅力を感じてということなのでしょうか?

伊藤:ニューヨークを出たのは結局ブロードウェイのシステムが、クリエイティブじゃなくてマーケティングだと思ったことが理由です。私がアジア系だというと「じゃあアジア系の仕事をしろ」という感じで。あまりインスピレーションがなくて…。社会保険もないですし、長く腰を据えて活動を続けるフィールドとしては難しかったです。すごく自由なNYの生活の習慣は好きだったんですけどね。


異国生活の中で感じた日本人の考え方
人生は一度きりだから 自分や日本という国に誇りをもって



— ニューヨーク・フランスと異国で長く生活をされて、日本についてはどのように感じていますか。

伊藤: 日本ってすごく恵まれていると思うんです。いろんな美徳がある。私自身日本を離れてから思うんですけど、日本には好きなことがいっぱいあるんです。例えばいろんな作家とか物事の考え方とか、建物とか。

 一方で私が離れて見て日本人の生き方・考え方について一番思うのは、「私は本来こうしていなきゃいけないのにしていない」「私の髪型はこうなってないといけないのになってない」「礼儀正しく装わなければならないのにできていない」…などと、自分のあるべき姿を勝手に設定して、悔いたり、他人からどう思われるかを気にするようなことが、生きる上で邪魔になるんじゃないかなということ。

 今回チリに来て知ったのですが、チリの先住民族・マプチェには「前は過去で、未来が後ろ」という考え方があるそうです。日本人の考え方とは逆ですよね、通ってきたものを見ながら、進んでいく。マプチェの考え方は極端かもしれませんが、一生懸命あるべき姿を考えて生きるより、結局みんな死ぬんですから、あまり考えずに。

 みんなやりたいことをやればいいんですよ。自分がこの社会でどうやって生きていけばいいかっていう一人一人のスタンスが大事。社会がどうのこうのっていっても社会は変わらないわけだし、周りを変えようとするより、自分を変えたほうが早いですよね。まず、日本のことや自分自身を誇りに思って生きていかないと、人にばっかり影響されてしまう。人生一度しかないですからね。毎秒一度きりですから。


日本を離れて10年以上
日本と再び絆をつくろうと 始めたのは父親との作品制作



伊藤:長年海外で暮らしていたということもあり、自分が家族から離れていること、自分が国を出たっていうことに罪悪感のようなものがありました。

 そういうことも影響して、「いつか離れて暮らしている日本という自分の国と何か絆をつくりたい」「その時にはお父さんと(絆を作ろう)」という思いがありました。私にとって父親という存在は、娘に対して「これはしちゃいけません」と教えてくれる立場であると同時に、日本の文化を背負っているようなところがあって、そういう意味で作品を一緒につくりたいと思っていました。


  • 「私は言葉を信じないので踊る」新作、出演 伊藤郁女 (娘), 伊藤博史 (父親)

 私がコンテンポラリーをはじめた頃は、お父さんも私の踊りに対していろいろ言っていました。

 「空間が君を踊らせるのではなく、君が空間を踊らせなければいけない」と言われたことがあって、その当時はわからなかったのですが、今はだんだんその言葉の意味がわかるようになって。

 それで自分たちの関係を深めるのに、一緒に舞台に立つというプロジェクトをやったらいいんじゃないか?という話になったんです。私たちのためでもあるけれど、見ている人たちにとっても面白いんじゃないかって思って。

 だから今回の作品では、離れて暮らしているけれど「深く関係性を探っていく」という作品になっています。ダンスなんですけどね。

 日本人って言葉にならないことってあるじゃないですか。言葉にしなくてもわかるということも。そういったことをお父さんと話すようになったんです。作品を作る過程で最初にやったプロセスでも、そうした普段面と向かって話さないような200の質問をお父さんに投げかけました。「どうしてお父さんはカレーばっかり作るの?」「お父さんの人生で何が一番悲しかったの?」とか聞きながら、それを全部レコーディングして、全部サウンドとして作品の中で使ったりしています。

表現者として働くのに 国や人、言葉の“垣根”というものはない
世界を自由に行き来する彼女の展望は



— 経歴を拝見しても、お話を伺っていても人生のハイライトだらけのようなきがするのですが、伊藤さんにとって人生のターニングポイント・転換期っていつだったんでしょうか?

 伊藤:人生の転換期は「今」だと思っています。もちろん小さい転換期は今今今今…ってあるんですが、おっきくは「今」ですね。

 日本を出た時に、最初はヨーロッパで自分のアイデンティティーを作ろうと思ったんです。

 はじめは見たものを全部外から内にコピーしていたのですが、振付家もヨーロッパ人の方々ばかり。だけど、自分の作品を作りはじめた時に、今度は自分を探していくわけだから内を見つめ直すことが必要だなって思うようになったんです。父親や日本と再び絆を作ろうというのも、その一つだと思います。

 パリに在住されている俳優であり演出家の笈田ヨシさんと一緒にお仕事をした際に、日本の踊り方を学ばせて頂いたんですが、不思議なことに私にとってはやりにくかったんです。長い期間バレエをやっていたかから、私は重心がすごく上にあるんですが、日本の踊り方の場合、重心をお腹のおへその下に下げるんですよね。私はそれがすごくできなくて。それで居合道というのは面白いな〜と思ったんです。それから体の中心を動かすということを、居合道を通してすごく学びました。

 今までヨーロッパで戦いながら、問題は自分の外にある思っていました。でも、「問題って外にあると思いがちだけど、実は中にある」んですよね。いろんなものを外から吸収するというよりは中のものを磨いていくことで、外が見えてくる。そういうことに気付いたのは最近なんです。私は13年間動き続けてきたけども、自分の中を動かすってことがなかったんです。

 来年はそういったことについて、セネガルとフランスのハーフの映画監督と京都で映画を撮ります。アフリカにも日本的なスピリチュアルな哲学があって、自分のなかにもう一人の自分の自分がいて、それが外に行ったり中に行ったり自分を通っていくという考え方があるんです。

 そこで興味があるのが、目に見えないエネルギーの交換。ダンスをしていても、話していても言葉以外にエネルギーが伝わってくることってあると思うんです。居合道でも…特に「気」を交換するわけじゃないですか。そういう言葉にしなくてもわかることを映画にしよう!と思っています。今そういう転換期ですね!

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フランスでも一流アーティストの「クラス」に入った彼女の生きた哲学を、言葉の節々から感じていただくことはできただろうか。

彼女は、自分を信じるという信念に従い、自分のビジョンを追いかけて生きてきた。
しかし、ここまで至るのにどれだけの自己の探求を必要としただろうか。

人生をかけてひたむきに自分と向き合い続けこの境地に達した彼女は、その軌跡をこともなげに語る。その努力を思えば、思わずこちらが涙ぐむほどの道のりであるにも関わらず、だ。

 「クリエイティブ=内面から」ひとつの新しい気づきを得た彼女は、またダンスやその他の芸術表現を通して、今も世界のきっとどこかで「探す旅」を続けている。

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OTONA WRITER

ebichileco / ebichileco

ebichileco(えびちりこ) 一般社団法人TEKITO DESIGN Lab 代表理事/クリエイティブデザイナー 立教大学社会学部を卒業後、商社系IT企業勤務。2015年チリに移住し、デザイナー活動を開始。「社会課題をデザインの力で創造的に解決させる」を軸に、 行政・企業・個人など様々なパートナーと組みながら、事業を展開している。