芸術家に必要なのは「自分を信じること」。世界的ダンサー伊藤郁女が語るシンプルな答え

「フランスの大統領が自分の作品を見に来たり、食事に誘って頂くこともありますね。」 彼女はこともなげにそう語った。 アルベールビルオリンピックで一躍有名となった振付家、フィリップ・ドゥクフレとのコラボレーションも果たすほどの、日本が世界に誇るコンテンポラリーダンサー。

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伊藤郁女(いとう・かおり)
日本を飛び出して全世界的に活躍する、ダンサーであり振付家。



弱冠18歳での榎本了壱賞受賞を皮切りに、彼女は世界的な賞を次々と受賞。
「飛ぶ鳥を落とす勢い」という言葉を体現するかのように、パリを拠点に世界的有名振付家とのコラボレーションを自らの手で掴み取っていった。


海外のコンテンポラリーダンスの世界で生き抜く日本人女性は、歴史を振り返ってみても数えられる程しかいない。いったい何が彼女を成功に導いたのか?


 彼女には、飽くなき自己、さらには人間への探究心があった。
 そして、自己を見つめ続けてきた人間ゆえの、強い信念があった。


そんな彼女の芸術家としてのこれまでの生き方について、迷いないまっすぐな言葉で語ってくれた。


Profile 伊藤郁女(いとう・かおり)
1979年生まれ。5歳からクラシックバレエを高木俊徳に師事。18歳で振付を始め、98 年、STスポット「ラボ20」にて、榎本了壱賞を受賞。ニューヨーク州立大学サニーパーチェス校ダンス科に留学、グラハム、カニングハム、ホ-トン、リモンテクニックなどを学ぶ。立教大学教育学科卒業2002年、横浜ダンスコレクションにて、「財団法人横浜市文化振興財団賞」を受賞。2003年、フランス人振付家フィリップ・ドゥクフレによる『IRIS』で主要なソロパートをつとめる。04年、横浜ダンスコレクションで「ナショナル協議員賞」を受賞。文化庁海外派遣員としてアルビンエイリーに留学。ナイニ・チェン・ダンスカンパニー(ニューヨーク)などと踊る。05年、ベロニク・ケイの作品『ライン』(村上龍作)に出演。フランスの国立振付センターにて、振付家アンジュラン・プレルジョカージュと活動を始める。07年、ジェイムズ・ ティエレ(チャーリー・チャップリンの孫)の作品『Au revoir parapluie』に参加。09年、2008年、自作『ノクティルック』をスイス、フランスなどで公演。09年、『SOLOS』をマルセイユ国立劇場で発表。ギー・カシエース演出、シディ・ラビ・シャカウイ振付のオペラ『眠れる美女』(川端康成原作)でソリストとして出演。10年、アラン・プラテル『Out of Context』に出演。自作『Island of no memories』でフランスの振付コンクール、(ル)コネッセンス1位を受賞。2010年、同作品を彩の国、埼玉芸術劇場で公演。2011年、『Island of no memories』をEDN(European Dance Network)の援助を受ける。コメディ・フランセーズの俳優ドニー・ポダリデスと『ジキルとハイド』の作品にハイド役で出演。新人振付家賞、JADAFO、フォーラム賞を受賞。12年オレリアン・ボリ演出『Plexus』(伊藤郁女のための作品)に振付、出演。
13年アランプラテルのカンパニー、les ballets c de la b が自らの作品 『ASOBI』 をプロデュースし、日本のDance New Air でも公演し、セゾン文化財団からも助成を受ける。2014年笈田ヨシ演出、『Yumé』を振付、出演。ジュネーブのバレエ・ジュニアーに振付をする。

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数々の輝かしい受賞歴の裏側にある
即決即断の行動力 と 自分自信の信念



— 今ではコンテンポラリーダンスの領域で、振付家としても、ダンサーとしても大活躍の伊藤さんですが、どんなきっかけがあってコンテンポラリーダンスを始めたのでしょうか。

伊藤:バレエを17歳までずっとやっていたのですが、ある時「なんで日本人って、ヨーロッパ人みたいに白いタイツ履いてバッハみたいな頭にして、体も小さいし頭も大きいのにこんなことをやるんだろう」って思ったんです。それをバレエの先生に聞いてみたんですが答えてくれなくて…。「じゃあやめよう!」ってスパッと辞めちゃいました(笑)

 バレエをやめたとき、『ぴあ』*に手を伸ばしてみると、色々な現代舞踊の公演が載っていたので、掲載されていた公演を全部見に行きました。当時、田中泯さんがつば垂らしながら踊っていて「どうしてつばを垂らしながら踊っているんですか?!」って楽屋まで直接聞きに行ったり、舞踏の伊藤キムさんのワークショップに行った際は「かおりちゃん17歳でしょ。哲学わかってないならこういうのやらないほうがいいんじゃないの?」って言われましたが、「わかります!!」とかいいながら参加したり……。そういう感じの子でしたね(笑)
*『ぴあ』は映画情報・コンサート情報をまとめた雑誌。2011年に休刊となった。

 そうしてコンテンポラリーダンスをやるようになりました。初めて現在のコンテンポラリーダンスで手応えを得たのは私が18歳の時。当時横浜に「SPスポット」というところがあり、自分の作品を見せられる機会があったので、ただただ勢いで初めて自分の作品作ろうと思い、会話をレコーディングして、会話を流した空間の中で、その会話に関係なくダンスを踊ったんです。それで賞を頂きました。


海外色に染まった大学生活
けれど、日本の大学でこそ経験できた開かれた世界も



— 大学では表現やダンスに関わる勉強ではなく、総合大学に進学されたんですね。

伊藤:学校でダンスしてもしょうがないじゃないなって思っちゃったんです。レベルも違うし、それだったら海外に行こうと思って。でも、振り返ってみると立教大学での時間もとても必要な時期でした。

 大学2年時NYの留学を経て立教大学へ帰ってきた頃に、「比較文芸思想コース」という授業ができたんです。アートをやりながら、自分の作品を批評するっていう…自分で作っといて自分で批評するんです(笑)。
それが結構面白くて!

 映画監督の篠崎誠さんの授業では、100人規模で映画を作って批評を行いました。その際には青山真治さんや黒沢清さんもいらしてコメントを頂いたり。

 それから「サブカルチャー」という授業があって、200人が入る大きな講堂で歌手の椎名林檎さんの曲を2時間聞いて、「がーーーーっ」とみんなでメモを取って分析するんです(笑)そんなふうに、授業もおもしろかったんです。

 一方、大学生ってきゃぴきゃぴしてたでしょ。最初私もそういう周りの女の子たちに流されてたんです…。サッカーのマネージャーとかやってみたり(笑)。
 でもそういう大学生活の中でよかったのは、アートに触れる授業をやりつつも、これまでを振り返ってみても、実は色々な社会に触れられることができたなと思うのがその時期くらいなんです。結局、舞台の表現者だけに囲まれてしまうと、世界が閉ざされたようになり、あまり普通の人と話せる機会がないので。立教大学での学生生活はそういう意味で私に必要な時期だったと思っています。


幼い頃からの計り知れない追求心が
海外留学へのエネルギーへ



— ニューヨークにはどんなきっかけで行かれたんですか。

伊藤:舞踊評論家の石井達郎さんと私のお母さんが仲が良くて、大学生の頃にお会いしたことがありました。その時、石井さんが私を見て「かおりちゃんはそういうエネルギーを持っているなら、ニューヨークに行った方がいいよ」ってアドバイスをしてくれて。「なら行ってみようかな」と思って決めました(笑)。

 ニューヨーク州立大学へ行ってみて一番よかったのはダンスだけじゃなかったことですね。彫刻家のデパートメントで彫刻やったり、カポイラの楽器でサンバやったりだとか。ドレットロックスにしたりとか(笑)


卒業後のビジョン
それは1%の確率の先に広がっていた 限りなく広い世界への入り口



— 卒業後の進路は在学中から考えていましたか。

伊藤:あまり考えてなかったですが、就職活動は絶対やらないと思っていました。
 立教大学だと99%の就職率らしいんですが、その残りの1%に入るって逆にかっこいいなと思っていました(笑)。誇りに思っていましたね。

 18歳のときに横浜で初めて頂いた賞の後も、何回かコンペティションに出て賞を頂きました。そんな時、何かやらなきゃいけないと思って、ニューヨークやヨーロッパに3ヶ月間バックパックでスクール探しをはじめました。
 といっても特にアテがあるわけでもないので、有名な劇場に入っていって、そこのディレクターに会い「ここの地域の一番有名な振付家の名前を教えてくれ!」って頼んだり。後に、その方ともそのまま仕事に繋がったんです。仕事し始めたあともオーディションを受けまくって、仕事に繋がっていきましたね。

 あとはワークショップに参加していました。初めて行ったワークショップでは、プロデューサーの人が見てくれていたようで、後で電話をかけてくれたんです。「かおりさん、フィリップ*のワークショップにも出てください」と言われて。その時強気にも「お金払ってもらえるなら出ます!」って言ったら「払いますよ!」って(笑)
 実はそれがオーディションだったんです。結果、それに受かり、仕事を頂いてフランスに連れていかれたんです。若干22歳、フランスの国立劇場での舞台で、いい役を頂きました。その舞台を見た別の振付家に仕事を依頼されて、チャップリンの孫とも一緒に仕事をさせて頂きましたね。
*フィリップ・ドゥクフレはフランスのダンサー・振付家。アルベールビルオリンピックの振付を担当。


「SoloS」フィリップ・ドゥクフレ、アンジュラン・プレルジョカージュ、ジェイムズ・ティエレ、アラン・プラテル、シディ・ラルビ・シェルカウイなど世界の名立たる振付家たちとのコラボレーションから、伊藤郁女にとっての"女性"を問う作品。 2009年、マルセイユ国立劇場や横浜赤レンガ倉庫1号館など、数々の場所で上演した作品。

いつの間にか少女はフランスの大舞台に立っていた
しかし、彼女の追求心はその先にあった



伊藤:それを機にパリに拠点をおき始めたわけですが、ヨーロッパにいる間は計画として、前田允さんの『ヌーベルダンス横断』という本にある全部の舞台の写真を見て、好きだと思うものに線を引き、それ全部の振付家に会いに行きました。自分なりのリストに沿って行動していましたね。
 会いに行って肩をたたいて「あなたのために踊りたいんです!」って言ったら「そうか…じゃあ来たら?」って言ってもらい(笑)歴史的に有名な方々に会ってどんどん繋がりました。取れるものは全部取りにいっていましたね。

 その後、フランスに10年間いることでいろいろなものが見えてきました。
例えば、夕食を食べる時に大体みんな政治・歴史・劇場の話とか…誰が何年にどういうことをやったとかっていうのを知らないといけなくて。文化意識や政治意識がないと食事を一緒に食べられないんです(笑)

— それはフランスならではの厳しさを感じますね。そんな環境下で表現者として認められるのはやはり凄いですね。

伊藤:アーティストとして認められるまでも10年かかりました。特に、ダンサーとしては初めから認められていたけれど、それから振付家やアーティストとして認められるまでに*すごく時間がかかって。

 フランスってダンサーで有名だとダンサーとしてだけで、振付家になれなかったりで結構厳しいんです。有名な俳優さんが映画を作ったら、すごく批判されたりだとか…そういう世界です。
*伊藤さんは、ダンスや振り付けの他に、写真やペインティング、映画製作なども行っている。

— アーティストにとっての成功はなんだと思われますか?

伊藤:今のアートの世界で「成功した」って言われたりしますが、結局「成功」っていうのは2段階目です。この世界で1段階目に必要なのは「自分がそれで何がしたいのか」ってわかってないと絶対壊れちゃうということなんです。
 1曲目が成功して2曲目が成功しない人もいる。そうやって続かない芸術の社会。この世界では先は読めない。そういう社会で生きていくときに、他から影響されていっちゃうと自分が食われて行っちゃうわけです。

 そうならないためには、「自分の芸術家としてのビジョン」っていうものがあって、「自分のビジョン」つまり自分なりにどこにいきつければいいのかわかっていることが重要ですね。周りから才能があると言われても、自分が何を探しているのかわからないという人がいっぱいいるような気がします。

 「成功」っていうのは多分、成功を気にしないときに成功するわけで、成功ばかりを気にしていると成功しないんです。どうやって成功するかって、自分なりのゴールがあって、そこにいくために自分なりにいろんな苦労とか努力をしているわけで、そのプロセスの中でそういうものは通っていくわけですよね。

 成功っていうのは道の最後にあるものじゃないんですよ。通っていくものだから。お金をたくさん持っている人でも不幸な人はたくさんいます。そういう中で、自分の見方で、自分が幸せになるものを見つけることが必要だということです。結局のところ、「自分のビジョン」がはっきりしてないと壊れていっちゃいますね。

 皆さん才能ありますからね。芸術に関わらず、世界全体的にそうだと思うのですが、自分を信用して、その先にどうやって自分で道を見つけていくか。ではないでしょうか。

自分の心に忠実に生き
「自分を信じる」というシンプルな答え



— 芸術家として「自分なりの道」を一生懸命見つけていくと思いますが、そこに悶々としてしまう人も多いと思います。

伊藤:日本人って全部学ばなきゃと思っちゃう。123ってあると123って教科書通りにやろうとする。でも本当は「123のなかで、自分が好きなものはなんなのか」っていう…、やはりここでも「ビジョン」が大事だと思うんです。

 さらに言うと、何を学ぶかというよりは、どうやって学ぶかというのが問題で、自分なりに「自分が一番感じるもの」っていうのを正直に受け止めて、「あ!これいいね!」って思ったら、それを増やしていけばいいと思うんです。そういう生き方をしてきたら、そういうものがどんどん見つかってきて、それは自分のリアリティになるじゃないですか。

 よくフランスの哲学で、「本当のもの」というのは「自分なりに本当だと思っているから本当である」と語られます。例えば、宗教なども自分で信じているから神様はいるわけで、自分で信じなかったら神様はいないわけですよ。信じることで実現することってあると思うんです。
 だけど、それを最近の子って信じていない。なんでもいいから信じることから始めれば、自分を信じることができる。どんなことをやっていても結局死ぬわけじゃないですか。今の時点でやりたいことを信じてやる。ということが一番大事だと思っています。

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"自分なりのゴールを持ち、そこへ向かって努力すること。"

世界をまたにかける芸術家の結論は意外にもシンプルなものだった。
自らのゴールを信じて歩み続けた彼女は、いつの間にか「成功者」と呼ばれるようになっていた。

「今の自分」と向き合い続け、自らのビジョンを明確にすることが、新たな扉を開く鍵かもしれない。

私自身、チリでデザイナーとしての生き方を模索している身。
彼女の迷いのない、そして潔くまっすぐな言葉の一つ一つを受け、インタビューが終わる頃には興奮冷めやらなかった。


▼次回予告
インタビューはまだまだ続く。
伊藤さんのダンスについて、10年間ニューヨークとフランスで触れてきた芸術哲学。
そしてまさに「今」向き合っているテーマについて紹介します。お楽しみに!

世界で注目のダンサーの“内なる自分を探す旅” 大きな転換期は「今」

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OTONA WRITER

ebichileco / ebichileco

ebichileco(えびちりこ) 一般社団法人TEKITO DESIGN Lab 代表理事/クリエイティブデザイナー 立教大学社会学部を卒業後、商社系IT企業勤務。2015年チリに移住し、デザイナー活動を開始。「社会課題をデザインの力で創造的に解決させる」を軸に、 行政・企業・個人など様々なパートナーと組みながら、事業を展開している。