杉原 悠太 さん(デザイナー、プログラマー)
現在 主にソウル・東京を拠点に活動中。
2009年、早稲田大学機械工学科を卒業。桑沢デザイン研究所基礎造形コースを経て、フリーランスとして活動開始。
作業領域は、イラスト、グラフィック、ウェブ、システム開発、等 多岐にわたります。
2010年、スリランカの児童養護施設での滞在を機にスリランカ支援に携わるようになり、2012年よりソウルに拠点を移し、文化地形研究所にメカニックエンジニアとして在籍。同年、デザインによる国際支援プロジェクトとして”スリランカテキスタイルプロジェクト”を発足しました。
http://sugihara-yuta.com
序章
【Facebookでむかし、まいた種が実った】
実は杉原さんとわたしが最初に出会ったのは3年前。
eART KANAZAWAで存在を知ったのがきっかけです。
そのときはFacebookでの繋がりのみ。その3年後わたしは韓国に留学し、たまたま韓国でよく行っていたLIVEハウスに彼も深く関わっていることを知り、まだ韓国のアート・音楽シーンについて何も知らなかったわたしは、彼ならきっと詳しいにちがいないと思い、色々教えて下さい!とFacebookメッセンジャーで3年ぶりに連絡をとってみると、こころよくOK。この後、わたしの韓国ライフは彼によって思いがけず大きく開かれていくことになったのでした。
そのときわたしは改めてSNSのチカラはすごいな、世界中どこででも、誰とでも連絡がとれちゃうんだな、と再認識したのでした。
【わたしが彼に興味をもった理由】 フリーランサーとして生きるリアルとはどういうことなのか?
就職することを考えた時期、組織に所属して自分のクリエイションができなくなっていくことも、旅が大好きなわたしにとって、地に足を固めて、自由に動けなくなることもとても窮屈だと漠然と思いました。
それでいつも理想としては、旅をしながら絵やその土地の記事を書いて、それがお金になれば、どんなに素敵なことだろう・・と、思っていました。(注:理想論です)
しかし、私のように思っている美大生は、実は少なくはないのではないでしょうか?
もちろん世の中にはいろんな会社や仕事がありますし、多くの成功しているフリーランサーのように、何年か会社で働き、世の中のしくみをしっかり学び、広い人脈を作ったうえで独立することもできます。
しかしどうにも自分には、まず会社という組織に入る、ということがピンときませんでした。
「個人で生き抜く」ということの、具体的でリアルなところを知りたい・・。
そうやって生きる術とは?しかし具体的に参考になるような人物が周りにおらず、なかなかビジョンを描けないままでいました。
作家やアーティストとして食べて行こうとすることも同じことだと思います。
ギャラリーなどに所属することはあるにしても、いかに自分自身をプロデュースし、売り込み、自分というブランドを確立させていくか?
作家という職業も、ただ もくもくと作品を作っていけばなんとかなる、というものではないですよね。(ある一部のひとを除いて)
今回は、わたしが気になったポイントごとにテーマを分けて、フリーランスのデザイナー、企画者として生きる杉原さんに教わった多くのヒントをもとに、
美大生が美大を卒業後、作家として、フリーランサーとして、組織に属さず個人の力で、どうやって世の中をサバイブしていけるのか?
というテーマについて、杉原さんに伺ったお話をご紹介したいと思います。
読んでいる方の生き方に直接的には関係しなくても、何かの参考になれば・・と思います。
【杉原悠太さんに聞いた、フリーランスとして生きるリアル】
1)お金と精神のバランスについて
いきなりですが大事なこと。わたしが一番気になったポイントから。
なんといってもお金は、やはり生きるために必要なものです。
よっぽど親が裕福か、パトロンがついているとかではない限り、多くの人にとって このことはとても重要な位置を占めると思います。
杉原さんは言います。
『お金がちゃんとゆとりがあると、頭の中が活性化する。逆もしかり。基本的な人間としての生活をちゃんとしていれば、絶対アイデアはちゃんと生まれてくるから。』
この言葉に共感するひとは多いのではないでしょうか?
ギリギリの生活の中でこそ最高のパフォーマンスができるというひともいますが、お金のことにばかり気をとられてしまっていてクリエイションに支障が出る、ということはよくある話で、もったいないことだと思ってしまいます。
例えばわたしも過去、ひとり暮らしの生活の中で、食生活が大きく乱れたときがありました。金銭に余裕がなさすぎて食欲もなく、すこしの野菜とチョコバーのみ、という生活をしていましたが、今になって考えると、それで良いアイデアなんか生まれるはずはありませんでした。
「金銭的に安定していたら ひがみも言わないし もっといい発想が生まれる。
嘆きもなくなるし、しあわせに活動を続けていくことは絶対にできるはず。」
自分のやりたいことを健康に続けていく為に、必要であればプライドを捨てて副業もするべきだと彼は言います。それによって少し自分のアートワークの時間が削られてしまうとしても、そこはバランスを見ながら、生活に必要なだけのお金はきちんと稼いで、ちゃんと生きていったほうが良い、と。
基本的な人間としての生活・・ごはんをきちんと食べ、睡眠を取り、適度に運動して、人とコミュニケーションをとること。
人間の身体は素直で、社会的な生き物なので、このことのどれかが欠けると、やはりだんだんとおかしくなっていくのではないかとわたしも思います。
生命力が、もっと強くなければならない。
「表現ごとをやっているっていうのは、そもそも生命力が強くないと。
そう生きることを選んだのも自分。」
確かにちょっとしたことでメンタルをやられて落ち込んでいては、とても続けていける気がしません。
合評で教授に思いっきり酷評されても、コンペで落ち続けても、「いつか自分の作品の良さにみんなが気がつくときがくるさ」くらいの心持ちでいることが大切かもしれません。
2)自分の世界を広げること
杉原さんは美大出身ではありません。彼はものづくりがしたくて早稲田大学の機械工学科に入りました。そして、大学4年生の時に大学外部の友人から「一緒にデザインを学んでみない?デザインって「言語」なんだって。英語教室に通うようなつもりで行ってみようよ。」という誘いをうけて、桑沢デザイン研究所の基礎造形コースに入学。その時は「デザイン?言語?」と、わけもわからない状態だったそうですが、それでも、「大学で学んでいるものとは違うものづくり」の世界に興味をもち、大学の勉強と並行して「デザイン」を学んでみることにしました。
「(違う分野を学び始めたときに)自分がまだ学生だったっていうのは、ラッキーだった」
早稲田大学に通いながら、ダブルスクールとして桑沢デザイン研究所基礎造形コースに通い始めた当時の杉原さんのクラスメイトには、社会人をしながら通っている人や、とりあえず高校を出て入ってきた人など、様々な種類の人がいたのだそう。
この時期から様々な出会いに恵まれて、積極的に様々なコミュニティ・場所に足を運ぶようになります。・・美大生のコミュニティ、社会人のコミュニティ、同性愛者のコミュニティ、生活保護をうけて暮らす人々のコミュニティ等々。そこで様々な価値観や人生観に触れることになったといいます。
また、桑沢で”表現すること”について学んで得た事は、言葉以外で人とつながっていく、新しい”言語”の存在でした。
そうして世界を広げていくうちに、漠然と「絵を描きたいな」と思い始めたのだそうです。
大学、そして、桑沢を卒業後、大学時代の友人たちと企画してイベント「FROM」を立ち上げました。イベントと並行して、フリーペーパー:FROMの製作を行うなど、「企画者」というポジションで、経理・制作・広報など様々な役割を経験し、モノづくり、ひいては コトづくりをする味をしめることになりました。
彼にとって絵を描いたり、制作をすることは、「人を集める・人が集まるきっかけ」でした。
そのことを通じて色んな人と出会えることに魅力を感じたのだそうです。
(個人的に同感)
学生という、社会的に見れば守られ、自分のことに没頭できる時間。
大学を卒業する直前、彼が興味をもったのは、「自分がすっぽんぽんになったとき、何ができるか?」ということ。つまり、「就職もせずに社会に放り出されたあと、自分の力で生きて行く為にはどうすればいいのか?」ということだったといいます。
【杉原悠太さんに聞いた、フリーランスとして生きるリアル】
3)自分が生きていく為の環境を、自分で1から作っていく。
早稲田大学機械工学科でエネルギー開発について学んでいた彼の専門分野は、修士を経て企業に就職し、その後会社で更に教育を受けて、ようやく一人前になる、そんな道筋だったそうです。 多くの同級生達が大学院に進む中、彼は大学を4年で出ることにします。 卒業後、彼はタイやスリランカなど各地を回り、各都市を線画のイラストで表現するという創作活動に取り組み、個展やプロジェクトを重ねていきます。
「自分が今後、活動を続けていくために、知り合いにならなきゃいけない人は誰だろう?」「どういう人脈を広げていくべきか?」 そうやって、常に新しい情報に対して、アンテナが立っているという状態がとても大事だ、と杉原さんは言います。
大学を卒業し、報道局でアルバイトをしたり、プログラミングのバイトをしたりしながらお金を稼ぎ、個展・音楽活動・旅など、組織に属さず、個人としての活動を続けてきた杉原さん。
「組織に所属せずに、生き延びないといけないという状況は、すごく脳には良い。 自由人になって、誰かが決めた規則や時間からある意味解放されるわけだけど、その代わりに、結局同じもの(規則も時間感覚も)を自分なりに作っていかなければならない。生きていくために、常に頭は超フル回転(空回りも多々)。
また、報道局でのアルバイト時代、上司の誘いで3ヶ月間スリランカへ滞在したことがありました。この時、アジアの魅力に魅せられると同時に、地域支援に関心を持ち、その後もスリランカでの児童支援に携わるようになりました。その中で、貧困地域の問題に対して自分のデザインスキルを通した支援活動ができないかと考え始め、現在は、パートナーであるデザイナーのアンナさんと共に、スリランカの子供達が描いた絵をもとにプロダクトを作り、それを先進国に売りその収益を現地に還元する、というスリランカテキスタイルプロジェクトを進めています。
資金集めのためにソーシャルファンディングをしたり、前述したeART KANAZAWAなどのイベントでプレゼンテーションをするなど、様々な活動を通して助成金を得たり、コネクションは自分の手で作っていき、常に新しいことへのリサーチ・情報集めは欠かせなかったと言います。
そしてその全ては、まだ見ぬ世界への好奇心から始まっていました。
また、そうした取り組みの中で杉原さんが気づいたもうひとつ大切な事、それは 「自分の役割を探すこと・なるべく人が持っていない役割を担うこと」でした。
それはある方向に向かう組織(社会)の中で空いている席を探すようなもので、 自分に何ができて、何ができないのかを ある程度理解することでもあります。 そのためには、全体を俯瞰してみて、自分が今どの位置にいるのかをなるべく正確に把握する力をつけることが大事なのだといいます。
そして、わたしの韓国留学がそうであったように、環境を変えて見えてきたことも多くあったそうです。
「今までは日本という国にもう20何年間も所属していて・・じゃあ、国を変えてみたらどうなるんだろう?」 杉原さんにとっては、海外に出ることもまた、ひとつの「自分の役割を見つける」方法でした。拠点とする国を変えることもひとつの手段だというのです。
「海外の人々と話をしながら感じたことは、日本という国で生まれた僕たちは、(誤解を恐れずに言えば)先代が築き上げた経済環境や国際関係のおかげで、海外で挑戦するチャンスが無限に手に入るということ」
それは、日本国のパスポートを持ってさえすれば、ビザがなくても長期で滞在することできる国の多さ(多くの国で日本への信頼度・好感度は非常に高いですよね)、日本のアルバイトの時給の高さ・・。
この日本という国も現在、本当にたくさんの抱えきれないほどの問題で溢れていますが、世界基準で日本という国を見てみると、国民の持つ基本的なアドバンテージがとても高い国だということに気がつきます。
しかしいつまでも、この国が私たち国民を守ってくれるわけではないようです。
「じゃあ、そうなったとき(例えば、将来、社会保証制度が変わっていくなど、“日本という国が国民を守る力“が弱った時)に、国や組織に依存せずに強く生きて行く準備をしておくべきなんじゃないか」
たとえばそれは4年前の3月11日の震災以降、人々が、自分たちが今まで培ってきた土地や仕事を一瞬にして奪われてから「当たり前だったことが当たり前ではなくなったとき」に、「本当の幸せとは何か?」「本当に自分が今しなくてはならないこと・大切なものとは?」と、もう一度始めから考えはじめたこととも共通することかもしれません。
杉原さんが繰り返し、自分の役割を自問自答する理由。
前提として、「生きていくことは、社会の中で何かしらの役割を担うこと」という考えがあるそう。
こんなことも話していた。
「フリーランスと会社員。目標を立て、それに向かって、行動計画を立てるのは、フリーランスも会社員も同じ。一つ違うのは、会社員は、会社から役割を与えられていて、フリーランスは、自分で社会の中での役割を決めないといけないということ。
社会の中で席を獲得するためには、自分に何ができて何ができないのか、常に突き詰めて考えていかないといけない。
会社にも入らず、人脈もなく、ゼロからスタートだった自分は、試行錯誤の繰り返しで、目標を立ててもうまく進展しなかった。仕事の効率を知らず、簡単なことに無駄に時間をかける。平日休日関係なく、パソコンの前に座りっぱなし。それでも、合間の時間をつかって、がむしゃらに人に会い、仕事を探し生きてたら、少しずつやりようが見えてきて、どんどん楽しくなってきた。」
金銭的な安定を得る代わりに、生活の保障を得る代わりに、縛られず、自分で選択して様々な場所へ行き、人と出会い、自分なりのこころの豊かさを得ること、どきどきして生きることを選んだ。
その責任というのを負うのも、自分。
今でも時々は、いいようのない不安に襲われることもあるという杉原さん。
これからさらに本格化させていこうとしているスリランカでのプロジェクトも、ソーシャルファンディングでは予想を上回る結果を出し活動資金を得ることには成功しましたが、これからもうまくいく保証はどこにもありません。
常に社会の中では、風邪もひけず、常に動いていく一匹狼としての立場を強いられます。
自由であるがゆえに、孤独でもあり、もちろん、誰も自分の将来を保証してくれるわけではありません。
【杉原悠太さんに聞いた、フリーランスとして生きるリアル】
4)しぶとく、健康に生きる。そして自分を愛すること。
最後になりましたが第1章、2章へ続き、私が共通して伝えたいテーマです。
これは私が留学を決めた大きなきっかけとなったこと、そして杉原さんにお話を伺いながら、改めてその重要性を再確認したことでもあります。
とにかく心身の健康を保ち、人間としての基本的な生活をきちんと営むこと。
例えていえば作家の場合でも、制作に没頭していても徹夜続き、昼夜逆転で不規則な生活をしていては、身体が持ちません。そのときどき・若いうちはよくても、生涯その仕事を続けていきたいとした場合、持続的なことではありませんよね。
一見自由なように見える職業であるがゆえに、からだの管理だけではなくタイムマネジメント・ひいてはメンタルマネジメントが非常に重要だといいます。
また、優れた作り手であればあるほど、サラリーマンのように規則正しい生活をしていると言います。
生きることはときに「こんなはずじゃなかった」と、無理を強いられるときもあると思います。
しかし、コンクリートジャングルでめまぐるしく働いていても、家や工房、スタジオで缶詰になって制作をしていても、ときには自然と触れ合い、深呼吸すること。
まわりの人への感謝を忘れず、直に相手の目を見て、心が通い合うような会話をすること。
そして、自分を愛する心。
自分を愛せていないひとが、まわりの人間を巻き込んでクリエイティブなことを起こすことは難しいと思います。
就職がうまくいかなくても、制作の方向性を見失っても、今は自称アーティストという名のフリーターだったとしても。
この記事を読んでいるあなたはまだ若く、きっと人生はもっと長いものだと思うのです。
あせって自らの可能性を狭めたり、「自分にはどうせ無理」と諦めたり、今まで自分がやってきたことを否定しないでください。
美大生たちが美大を卒業後も、もっと自分たちのチカラを発揮していけるような、活躍していく環境が増えていけば良いな、と思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
’ひとの思いが込められたものたち’ に囲まれて育ち、いつしか自分も ものづくり がしたいと思い金沢の美大の工芸科に入り、学部3年次を休学し、韓国ソウルへ短期留学。現在は京都府在住。 人と関わり合うことによって、その人を知り好きになることで興味の幅が広がっていく感覚を大切に生活をしています。