水木しげるさんから見るムサビの歴史

しばらく更新しないつもりだったけど今日は書くしかないっしょ、の手羽です。

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11月30日、水木しげるさんがお亡くなりになりました。
【訃報】「ゲゲゲの鬼太郎」作者の漫画家・水木しげるさんが死去-GIGAZINE

水木さんは1948年に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学し、2年で中退されてまして、私たちの大大先輩なんです。


ところで、水木さんのいらっしゃった1948-1950年頃はムサビの2回目のターニングポイントともいえる時期でして。

1929年に帝国美術学校(通称「帝美」)ができ、その6年後の1935年に「ナンヤカンヤあって」帝国美術学校と多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)に分裂します。これが最初のターニングポイント。
で、普段ははしょって「帝国美術学校から武蔵野美術学校、そして武蔵野美術大学に」と説明するんですが、帝国美術学校から武蔵野美術学校にスムースに移行したわけではなく、その間の1947年に「造型美術学園」と名乗った時期が1年だけあるんです。
あ、というわけで今日のTOPバナー写真は造型美術学園の学則。


ようやく1947年5月山脇巌氏が就任するんですが、受験者57名で合格者56名という状態・・。
さらに造型美術学園は実技中心のカリキュラムを実行したため、帝国美術学校校友会から「そんなのは帝美と違う!」と反論が起き、校友会から 「実技のみに偏らず教養ある作家を育てるため広く・・」 「学科を重んじ規律ある厳しき教育をなすこと」という文書が出され、翌年1948年9月に山脇氏が辞任。ちなみに山脇氏はのちに日藝デザイン科の基礎を作った方です。
そして同12月に「武蔵野美術学校」と校名変更します。初代校長が名取堯氏で、ムサビの教育理念の一つ「真に人間的自由に達するような教育」を作った人です。
たった1年だけだったけど、造型美術学園は「実技だけでなく教養を重んじる」ムサビの方向を決める(再確認する)ことにもなったわけで、ムサビの歴史を語る中で重要なターニングポイントってのはそういうことなんですね。
あ、なので「水木さん1948年入学」が正しければ、もしかすると「造型美術学園入学・武蔵野美術学校中退」が正確な表記なのかもしれません。


怒涛の状況はまだまだ続きます。
翌年の1949年2月に設置者・田中高愚が逝去。息子である若干27歳の田中誠治(私財をなげうってムサビを発展させた人。12号館前に頭像がありますね)が受け継ぎ、51年に美術系学校で日本最初の通信教育をスタート・・・とこの流れを聞くだけで、この2,3年はムサビにとって急激に状況が変化した時期なのがわかります。
もし自分がこの時代に生きてて職員やってたら、どう対応してたのかな・・・。


以上、手元資料なく書いてるので間違ってたら修正してくださいね>大学史の皆さん の手羽がお送りいたしました。鳥料理がいいです。

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OTONA WRITER

手羽イチロウ / teba ichiro

【美大愛好家】 福岡県出身。武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒。 2003年より学生ブログサイト「ムサビコム」、2009年より「美大日記」を運営。2007年「ムサビ日記 -リアルな美大の日常を」を出版。三谷幸喜と浦沢直樹とみうらじゅんと羽海野チカとハイキュー!と合体変形ロボットとパシリムとムサビと美大が好きで、シャンプーはマシェリを20年愛用。理想の美大「手羽美術大学★」設立を目指し奮闘中。