シューズブランドの始め方と終わり方、 そして新たな始まりについて(前編)

「世の中を生き抜く術・勝ち残る術」をテーマに、建築界の異端児の異名をとる建築家松葉邦彦が 今話したい人物と対談、インタビューを行い、これからの世の中を生きて行く学生や若手に伝えたいメッセージを発信する。第26回はスニーカー、ブーツ、バッグを展開するシューズブランドRFW(アールエフダブリュー)デザイナーの鹿子木隆さんにお話を伺いました。

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  • © 広川智基

鹿子木 隆(かのこぎ たかし)
シューズブランドRFW代表兼デザイナー。1998年シューズブランドRHYTHMをスタート。2012年にRFWに改名。RFWはスニーカーを中心にサンダルやブーツを製作する。シンプルでベーシックでありながら、独自のカッティングが光るデザインワークが特徴。クッション性、ホールド性に優れ、履き心地の良さにも定評のあるシューズをユニセックスで展開している。WWW.RFWTOKYO.COM

逆輸入でいきなりメジャーデビュー

松葉:「Outsider Architect」の第26回はRFWデザイナーの鹿子木隆さんににお話を伺っていきたいと思います。昨年の6月にこちら(RPM - RHYTHM PRIMARY MARKET)で開催されていた写真家の広川智基君の個展で初めて鹿子木さんにお会いしたのですが、その際にスニーカーを2足購入させていただきました。

鹿子木:ありがとうございます。

松葉:元々デザインが好きで購入させて頂いたのですが、履いてみたら履き心地がとても良くて追加で色々購入し、今ではRFWのスニーカーを10足ほど持っています。半年くらいで10足ですから年間20足ペースですね笑。そういう経緯もありましてお話しを伺えたらなと思いました。尚、出会いのきっかけが広川くんだったこともあり、今回は撮影をお願いしています。「個展で写真買ったんだから撮って」と笑。数々の有名人を撮影している売れっ子フォトグラファーですからね、何て贅沢な回だ笑。まあ広川君いじりはさておき、まずは何故靴のデザインに進まれたのかお教えいただけますでしょうか?

鹿子木:大学4年の頃、イギリスに旅行で行ったのですが、その雰囲気が自分にとても合うなと感じました。それで、どうしたらイギリスで暮らせるかと考えていた際に見た留学情報の雑誌で、Cordwainers Collegeという靴の学校があることを知りました。

松葉:靴専門の学校ですか?

鹿子木:靴のデザインや製作以外にもカバンや馬具の専攻もありました。あと馬のサドル(鞍)とかですね。カービングという革の彫刻のような技術を教えるコースもありました。ロンドンの端の方にある学校だったのですけど。当初、英語も喋れなかったので語学学校に通って1年後に入学しようと思っていたのですが、ダメ元で受験したら入れちゃって笑。というのも、ヨーロッパ(EU)の学生たちの授業料と、ヨーロッパ外からの学生たちの授業料が全然違うのです。当時ヨーロッパの人たちが授業料20万円だとしたら、ヨーロッパ外の人たちは100万円くらい払っていたイメージです。学校側のビジネス的な判断かもしれないですね。ちょっと絵を描いて、面接して入学許可が出ました笑。

松葉:確かに授業料を5倍払ってくれる学生の方が良いですよね。


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鹿子木:鹿子木:ただ、入ってからすごく苦労したのはやはり英語です。当然ですが喋れないですし、専門用語もわからないので。例えば最初の授業に足のアナトミー(解剖学)の授業があるのですが、そこで出てくる単語が辞書に載ってない言葉ばかりなんです。使用していた教科書の日本語版を持っていた友人に借りて見比べてどうにかやっていました。

松葉:靴関係で働いている人はCordwainers College出身の方が多いのですか?

鹿子木:はい、多いですね。有名なところですとJimmy ChooとかPATRICK COXですね。それ以外にも大勢います。今はLondon College of Fashionに吸収されてしまったのですが。

松葉:まさに王道という学校だったのですね。

鹿子木:靴をやるならココといった感じでした。イタリアにも有名な学校があるのですが、製靴産業はやっぱりイギリスが発祥だったりするので。例えばオックスフォードやダービーなど、英国由来の名前になっているケースが多いですよね。革靴の生産地として有名なノーザンプトンだったり。

松葉:ちなみに日本で靴の産地として有名な地域はあるのでしょうか?眼鏡だったら鯖江みたいな。

鹿子木:関東でしたら浅草、関西だと神戸の長田ですかね。浅草、長田が2大拠点です。

松葉:なるほど、確かに浅草周辺エリアは革を扱うようなお店も多いですよね。

鹿子木:そうです。革を鞣す作業には大量の水が必要なので、大きな河川沿い、荒川とかが多いです。それに関連して浅草から北千住にかけては割と革靴を作る工場も多いです。海外では縫製して釣り込んで靴底をカットしてくっつけてという一連の工程を一つの工場内で行いますが、日本は分業化されているところがほとんどです。型抜きや縫製、ソールのカットなど民家を改造して専門的にやっているところが多いです。ちなみにアッパーを釣り込んで底付けするところが一般的に日本では靴工場と呼ばれています。


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松葉:分業というシステムは、靴作りとして考えた時に望ましいのでしょうか?

鹿子木:靴作りだけではないと思いますが繁忙期と閑散期があるんですよね。ですので、仮に自分のところで抱えてしまうと経営的には厳しいなと。例えば1000足作る月もあればその半分しか作らない月もあるので。分業の方がリスクが少ないかもしれません。

松葉:浅草でスニーカーも作られているのでしょうか?

鹿子木:スニーカーは基本的には海外ですね。でもだいぶ最近変わってきていてビジネスシューズの需要も減ってきて、スニーカーの方にシフトしているかもしれない。最近は工場によって作る割合は変化してきていると思います。

松葉:話を戻しますが、イギリスで靴の勉強をされてその後どのようにブランドを立ち上げられたのでしょうか?

鹿子木:実は松葉さんとちょっと境遇が近いのですが、修行というか会社に勤めた経験が無いのです。イギリスで学生をしている頃にブランドを立ち上げて、靴のサンプルを作って、それを日本の商社に見てもらったところ「この商品を扱ってもいいよ」という話になり、展示会でオーダーが付いて、そのままデビューしてしまった感じです。

松葉:それは凄いですね。僕は何年もくすぶっていましたから笑。

鹿子木:元々日本に帰って靴屋さんに入社するのだろうなというビジョンがあったんですけど、運が良かったのか、たまたまその靴を売ってくれる先に出会って。

松葉:当時の最初のモデルってまだ残っていたりしますか?

鹿子木:今は作っていないですが当時のものがありますよ。かかとに紐がついていて、ぎゅっと締めて履くのですが。


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松葉:これは良いですね。絶対買うのでまた作ってください。

鹿子木:またやりたいとは思っていますので是非。

松葉:販売した時はどういう扱いになるのですか?もう鹿子木さんのブランドとして販売されたのですか?

鹿子木:そうですね。

松葉:イギリスで立ち上げたブランドを日本に輸入したという形で売り出したわけですね。それは日本で売れそうだ。ちなみにいつ頃の話ですか?

鹿子木:1997年頃にこのモデルを作ったんです。売り初めは98年の秋だったと思います。ユナイテッドアローズやバーニーズニューヨークとか大手のセレクトショップでも取り扱っていただきました。というのも、この靴は当時GEORGE COXの工場で作っていたのですが、OEMで他のブランドの靴も作っていて。そこの商社がイギリスの靴の商社だったのですが、その関係で自分の靴もしっかり扱ってくれました。ということで、自分も急に色々決めなくちゃいけなくなり、ブランド名とか焦って考えたのを覚えています。

広川:その頃からRFWというブランド名だったのですか?

鹿子木:最初はRHYTHM(リズム)という名前でスタートしました。音的に馴染みがあってシンプルだったので。ただ、商標を取る時に問題があってRHYTHM FOOTWEAR(リズム フットウェア)という名前に変えました。一般的な単語だけだと取りづらくて。その後頭文字のRFWに変更して国際商標も取りました。


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30歳で再スタート

松葉:お話を伺っていると、デビューから順風満帆な印象を受けますが実際のところはどうなのでしょう?

鹿子木:立ち上げ当初は学生だったので利益とかは意識していなかったんですよね。どちらかというと自分の名前が出てデビューできるということがただ嬉しくて。このモデルは一足3万円くらいだったと思いますが、それに対してほとんど自分の利益は乗っかっていませんでした。ただ、商社もきちんとプレスなどを打ってくれて、メジャーデビューできるという事実や実感が大きかったですね。ただ、5年くらい続けた時にふと、「これじゃやっていけないな」と気づきました。当時は自分のブランドだけをやっていたわけではなくて、他のブランドの靴関連のデザインの仕事を副業という形で受けていました。自分のブランドだけでは食べられなかったので。

松葉:確かに僕もデビュー出来た時は嬉しかったですね。お金は無かったですが笑。けど、あの当時ならお金に関係なく設計したと思います。今は絶対にやりませんが笑。

鹿子木:25歳でデビューして、30歳の時に自分で営業もプレスも全部やろうと思って、千駄ヶ谷にアパートを借りて再スタートしました。既にお客さんもついてくれていたのでそこまで大変なことはなかったですが、ただ、やっぱり商社がお客さんに売って、その代金を回収してということ全部やってくれていたという苦労を実感したのもその時でした。それまではサンプル作って展示会に望むまでが仕事だったのが、そこから注文取って卸先に連絡つけて、さらに日本全国の宛先を書いて発送するとか。発送したらしたで色々な問題が出たり、生産の段階でB品が出たり。お店の状況が悪くて倒産し代金を回収できないということも色々と経験しました。


松葉:仕入れ先や工場への支払いのタイミングと、靴の売り上げが回収できるタイミングにラグがありますもんね。回っていれば良いですが最初は特に大変ですよね。


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鹿子木:そうですね。当初は借入れもしました。工場には交渉して掛売にしてもらい、月末締めで翌月末払いにしてもらいました。ただ、工場から製品が納品されて取引先に送って回収する前には工場に支払わなければならないという感じですね。

松葉:新商品のリリースは定期的にしているのですか?

鹿子木:年2回の展示会ごとに新しいスニーカーは作っているのですが、直近2年くらいコロナ渦もあってなかなか新しいものを作れていない状況です。需要が増えないと新しいものはなかなか作りづらいですね。景気が落ちている時は定番の方が売れやすいですし。

松葉:展示会で発表しても量産に至らないものもあるのですか?

鹿子木:もちろんたくさんありますよ。形だけでなく色とかも。同じ形で3~4色作っても売れない色というのが出てきます。例えばピンクとかも、メンズにはウケけど逆にレディースにはウケなかったり。レディース向けに作ったものがレディースにウケなかったり、逆にメンズ向けがレディースにウケたり。男性的に女性に履いてもらえたらいいなという靴と、女性の理想は全く違ったりします。


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松葉:そういうものなのですね。ちなみに靴だけではないですが、最近派手な柄や色が好きなのですよね。歳をとってきて華が無くなってきているからそれを補おうと無意識にしているのだと思いますが、例えば迷彩柄やビビッドな色を好むようになりました。あと豹柄とか。大阪のおばちゃんの気持ちがわかるようになってきた笑。

鹿子木:そういう感覚ありますよね。似合うようになってくるというか。若い頃って「これが好き」から離れるのが嫌じゃないですか。好きなジャンル以外のものは認めたくないみたいな。ただ、歳を重ねていくと許容範囲が広がっていくんですよね。こだわりが無くなっていくというか、感覚が麻痺してくるというか。昔嫌いだったものが好きになってきたりする。「大人になるってこういうことなのか」みたいな。


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松葉:僕は最近CHROME HEARTSとかをジャラジャラ付けるのをそろそろやめようかなと考えています。財布を買い替えたタイミングに色々シンプルにしようと。妻がジュエリーデザイナーということもありますが、自分でシンプルなクロスペンダントをデザインして工場で作ってもらおうかなと思っています。

鹿子木:ジュエリーは原価率が高いから羨ましいです。スニーカーってこんなに工程があるのに下手したらプリントTシャツと同じ値段が付くんですよね。靴って両足あって、上の部分とソール部分とで複雑な構造になっているのに。それに歩くという耐久性も求められる。本来は工程や人手も考えるともうちょっと値上げした方がいいと思いますが、大手ブランドは5000~6000円スタートなので。そことの差が出てしまうと、買える人が限られてしまうという。

広川:ロット数が違うからなかなか難しいですよね。

松葉:あくまでも僕の体験談ですが、某大手の5000~6000円の靴のデザインが好きで色々履いていたのですが、足に合っていないのかいつも靴擦れしてしまい本当に困っていたんです。ですからRFWに出会った時は嬉しくて。それで半年で10足です笑。

鹿子木:ありがとうございます。けどお客さんの意識を履き心地まで持っていくのは本当に大変ですよね。まずは見た目がユニークで気になるかとかから始まりその後に値段。その上で試しに履いてみようかなとなる。どうしても見た目の面白さは大事になります。


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後編に続く

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