スウェーデンの女性たち〜アグネータさんのお話

仕事もプライベートも充実しているスウェーデンの女性たち。彼女たちが「ステキ」でいられる今の環境があるのは、70年代にフェミニストの活動の努力があってのことでした。前回予告しました通り、78歳の活気溢れるフェミニスト、アグネータ・ノーベリさんのお話を雑談を交えてお伝えします。

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  • マリメッコの柄にも負けないパワーの持ち主です。

お宅訪問

夕方の時刻にアグネータさんの自宅を訪ね、颯爽として現れた彼女が着ていたのは、70年代のマリメッコの鮮やかなドレス。早速そのドレスの話題になります。
「このドレスは家の中でしか着ないの。ほら、私って、よく喋るし、よく動くでしょ?その上こんなドレス着たら、まさにTOO MUCHだから!」
ここで気を遣わずにワハハと笑えるところが気持ちいいのです。
スウェーデン女(子)の特徴は、きちんとキャラが出来ているところ。
「私は、こういう人だから。」と、ユーモアを混ぜつつ冷静かつ明確に言える人はステキです。

褒めること

余談ですが、スウェーデンでは仕事の始まりの際や友人に会った時など、必ずと言っていい程、お互いの身につけているものを褒め合います。
最初は、「私、そんなにセンスいいのかしら」と思っていたのですが(笑)、段々とスウェーデンの“習慣”のようなものなのだと理解するようになりました。
ただそれはお世辞を言って持ち上げるというよりは、相手のいいところを探してそれを褒めるといった形です。
そうするとその後のコミュニケーションが非常にスムーズに進むのです。
特にチームワークを要する仕事場では、気持ちよく仕事を始められるかがとても重要です。タスクで頭がいっぱいになる前に、一緒に働く人のことをしっかりよく見ること。それが「褒めること」なのです。
「終わりよければすべてよし」といいますが、「最初が肝心」でもあるかもしれません。


お部屋案内とスウェーデンの家族について


  • 「おばあちゃんへ。アルフレッドより。2015年2月」

脱線してしまいました。
ドレスの会話が弾んだところで、アグネータさんがお部屋を案内してくれます。

「これは孫のアルフレッドが描いたの。アルファベットはちゃんと書けるのに、数字は裏返しになっちゃてるんだけど、それってスゴイことだと思わない?これは子供にしかできないことだから、敢えて間違いを指摘しなかったの。」

再び余談で失礼します。
スウェーデン人が家族を説明するとき、とても客観的なのにはいつも驚かされます。
子供からの視点然り、親祖父母の視点然り。

離婚率が高いことで知られるスウェーデンですが、家族仲がいい人たちが殊の外多いのです。(こういうことは統計からは読み取れませんよね)

「これからおばあちゃんとお茶する」とか、「この週末は家族と一緒に過ごす」などは日常茶飯事。
身近なところですと、私の夫(スウェーデン人)は彼の父と大の仲良しでして、頻繁に電話していますし、今も一ヶ月間一緒にハイキングに行っています。
スウェーデンでは、両親が離婚して家族構成が複雑な人も多いですし、大抵の人が高校卒業後すぐに実家をでて独立します。それでも家族のつながりが強いというのはきわめて興味深いところです。
その理由の一つとして、スウェーデンではたとえ家族であっても、個人としてお互いを尊重し合っていることが挙げられます。
また、「〜さんの娘」だとか、「〜さんの奥さん」ではなく、固有名詞で呼称される場面がほとんどです。
一人一人が個人として認識され、自立していくことで、家族の間の絶妙な距離感とつながりを生み出しているのです。(このテーマだけでももう一章書けてしまいますね)
アグネータさんもお孫さんを「自分の孫」としてだけではなく、しっかりと一人の人間として見ていることが窺えます。

お部屋案内が続きます。

「この写真は、私が敬愛するローザ・ルクセンブルグよ。1919年にドイツで虐殺された女性革命家なの。70年代にまずフェミニストがしたことは、過去に葬られた偉大な女性にもう一度光当てることだったの。」
ふむふむ。日本でも政治の背景では、卑弥呼とんで平塚雷鳥、と言っても過言はないでしょう。まず「女性は存在していた」というところからフェミニズムは始まるのですね。

「それからこれはね、8月に日本で行われる平和会議のための資料よ。この本を書いた彼がね、とーっても素敵なの。次の人生で結婚したいわね。あ、でも私、今だってちゃんとボーイフレンドいるんだけどね!」
そうなのです。彼女はもうすぐ平和会議に参加するために日本に行くのです。これで二回目の訪問なのだとか。そしていつまでも心ときめいていられるアグネータさん、こちらまで胸がきゅんとしてしまいます。


アグネータさんの生い立ち

「小さな村で育ったけど、私の心はいつも世界に向かっていたの。」
スウェーデン北部のヴェステルボッテン地方の小さな村で7人兄弟の末っ子として生まれたアグネータさん。お父さんは農家でお母さんは学校の先生でした。
「母が私の“アイドル”。私の母はね、しっかり頭で考えている人だった。」
20歳のときに妊娠、出産。いわゆる「授かり婚」だったそうだ。
しかし、結婚した直後に夫が多発生硬化症を患っていることがわかり、その一年後に完全な車椅子生活を余儀なくされた夫を介護することに。まもなく二人目を出産し、子育て、介護と同時に、大学で教育学を学び、その後は教師として働いていたというのだから更に驚きだ。
「私って、“マルチタスク”が得意なのよ。」
とまるで苦労などなかったかのように話すアグネータさん。
「母は、不満をいうだけでは何も解決しないっていうことを知っていた。ユーモアがあって強い人だった。」
言葉にすると簡単だが、こういうモチベーションを持つのはなかなか難しい。強くてたくましいお母さんがロールモデルとしていたおかげで、アグネータさんはタフな20代を乗り越えることができたのだそう。


フェミニズムとの出会い

「私の人生は、30代後半から始まったのよ。」
彼女がフェミニストの思想と出会った時、アグネータさんの子供たちはもう大きくなっていた。
「Group 8が私を救ってくれたの。それまでずっと言葉にできなかったことを表現することができるようになった。」
1968年に首都のストックホルムで発足されたフェミニスト集団「Group 8」は、70年代初頭には全国各地に拡大し、アグネータさんはスウェーデン北部での活動に関わっていたのだそう。
「Group 8」がまず重きをおいたのは、女性が口頭で説明するトレーニングをすることだったそうだ。
「自分の頭で考え、自分の言葉で表現すること」
確かにスウェーデンの女性でこれができる人が非常に多い。
決して身を乗り出して「私」を主張しなくても、適切に自分の考えを伝えられる人がほとんどだ。ここで大事なのは、「慎ましくいること」と「何も考えない」ということは同義ではないということ。
自分の意志をもってコミュニケーションができるようになった女性たちは、主に女性の労働環境の改善、家事の分担、保育園の増設、中絶と無痛分娩の合法化を社会に訴えかけました。


独自のプロジェクト

その後もフェミニストとして精力的に活動していたアグネータさん。しかしながら、都会のストックホルムとアグネータさんが住む小さな村の女性を取り巻く環境があまりに異なり、そのギャップに違和感を感じた彼女は、「Group 8」から距離を置き、もっと身近な女性たちに焦点を当てて活動することを決心します。

今まで他人に自分のストーリーを話す機会がなかった村の女性たち。彼女たちの声を聞き、文章にすることで、彼女たちの日常に光を当てることができるかもしれない。
そう考えたアグネータさんは、村で働く女性たちにインタビューをし、それを冊子として発行するという、独自のプロジェクトを行いました。
「あのインタビューをされた時に、私の人生が変わった。」
と話すのは、今年87歳になるアグネータさんの従姉のインゲボリ。当時50歳だった彼女の人生に、初めて光が差し込んだ瞬間だったとのことです。
アグネータさんは、このプロジェクトを通して、頭の中だけで考えるのではなく、身近なところから実際に行動を起こす大切さを実感したのだそうです。


  • 「今、私たちは女性の歴史を書き記さなくてはいけない。そして未来への権利を求めなくてはいけない。ここに。」

  • 従姉のインゲボリとアグネータさん

それから80年代に入り、アグネータさんは、家族の事情でストックホルムの郊外フレミングスベリに引っ越すことに。移民が多いエリアで知られているフレミングスベリで、教師として働いていたアグネータさん。そこで多くの移民の女性が抱えている問題を目にします。
強い父権社会をバックグラウンドにもつ移民の女性が、社会的にも家庭内でも弱い立場に立たされていることを知ったアグネータさんは、日曜日限定の「女子カフェ」を立ち上げます。

そのカフェで、彼女たちが集まってお茶をしながらおしゃべりをする。

一見何でもないことですが、この小さなコミュニケーションが、女性たちに社会とのつながりをもたらしてくれたのです。

アグネータさんがそこで出会ったある女性のことを話してくれました。
「家庭内暴力から逃げ出してきたモロッコ人の女性がね、初めて自分の名前を書いたときのこと、今でも忘れないわ。」
それまで、自分の名前すら書くことを許されなかった女性が、一文字ずつおそるおそる書いたときのこと。それがどういうことを意味するのかは、私たちの想像を越えたものなのでしょう。その後、その女性は自分自身で役所で手続きをし、自立した生活を送ることができるようになったそうです。

「女性の問題は、個人の問題として片付けられてはいけない。社会の問題として解決しなくちゃ。」
困難を個人ではなく社会で乗り越えていくという考え方が、アグネータさんの行動力の源なのです。

その後90年代後半に、女性平和活動家のヘレン・ジョンに感銘をうけ、現在にいたるまで平和活動家として世界中で活躍しているアグネータさん。
部屋に飾られているタペストリーには
「NEVER GIVE UP」の言葉。
まさに、アグネータさんの人生を表しています。

そんなこんなで光陰矢のごとし。気付けば7時間ぶっ通しでおしゃべりをしていました。
その間に一瞬も疲れた顔を見せなかったアグネータさんに、
「78歳にしては元気すぎるから病院に行った方がいいかもよ?」
と思わず冗談を言ってしまったほど。

帰り際に「あなたに会えて良かったわ。」とぎゅーっとハグしてくれるアグネータさん。
いえいえ、こちらこそ。
身近なところから何かを変えていけるかもしれないと、希望をもらった私。
次回以降も、スウェーデンの女性のこと、アートのこと、自身の活動のことなどお伝えしていけたらと思います。

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OTONA WRITER

HIROKO TSUCHIMOTO / Hiroko Tsuchimoto

1984年北海道生まれ。ストックホルム在住。武蔵野美術大学卒業後、2008年にスウェーデンに移住。コンストファック(国立美術工芸デザイン大学)、スウェーデン王立美術大学で勉強した後、主にパフォーマンスを媒体に活動している。過去3年間に、13カ国52ヶ所での展覧会、イベントに参加。昨今では、パフォーマンスイベントのキュレーション、ストックホルムの芸術協会フィルキンゲンで役員も務めている。