門田光雅
画家。1980年、静岡県生まれ。M画廊(栃木)、TEZUKAYAMA GALLERY(大阪)所属。第23回ホルベイン・スカラシップ奨学生。自身の記憶や感情の揺らぎを、絵画の色彩や筆致に置き換えて表現を探求している。2019年末には、MoMAのサポートを受け、NYリンカーンセンター内で大規模な個展を開催。作品をCy Twomblyの甥にあたるCody Franchetti氏がコレクションするなど、国内外で注目が集まっている。
「裏返す力」で世界を変える
松葉:「Outsider Architect」の第23回は画家の門田光雅さんにお話を伺っていきたいと思います。門田さんとのお付き合いは2016年に表参道のSEZON ART GALLERYで開催された個展「STROKES」 で「line works 3」という作品を購入させていただいた時からでして、その後は同学年ということもあり定期的に食事に行ったりもしています。また先日も代官山のUP SIDE DOWN Galleryで開催された「EMO.」に伺って娘用に「switch」という小さな絵を購入させていただきました。ちなみに僕は門田さんの多彩な抽象画が非常に好きなのですが、そもそも抽象画を描こうと思ったのは何故なのでしょうか?
門田:基本的に、ちゃんと形を描くことに、あまり興味がないんですよね。
松葉:そうなのですね、けど描こうと思えば描けるのですか?具象も?
門田:まあ、ある程度は描けますよ。もしよかったらお見せしましょうか?大学の授業でテンペラ画を習った時もあって、ただ僕は、2年生から概念コースという、コンセプチャルのコースを選択していて、あまりいわゆる上手に描くような写実には、結局は興味が向かなかったんですよね。これなんかは線香花火をモチーフにした作品で、写真を線だけの状態にして描いた、2×3mくらいある結構でかい作品ですよ。日常のワンシーンや出来事を作品化していました。
松葉:今と全然作風が違いますね。
門田:色を載せて描いていくのではなくて、奪っていく感じですね。スナップ写真を拡大コピーして、その下にカーボン紙を仕込んでそれをただなぞる。禁欲的な表現です。描きたい気持ちはあるけれど描く動機がはっきり見えない、言い表せない、というような時期が続いていました。この絵を描いたときは本当になぜこれやっているのかわからなかったけど、ただ、気持ちだけは強くあった。だから禁欲的になぞるだけ、写経に近い感じです。ただ色が奪われることで情報も削られて、秘匿的になっていくことの意味は感じていました。あと、この頃からイラストレーターとかフォトショップとかのPCのアプリケーションの機能も充実し始めてきたので、金箔とコンピューターの表現を混ぜた作品もつくったりしていました。新しさと古さの同居という二面性、あるいは、高貴なものと低俗なものとか。いま言っていることは、意外と学生の時から長く言っています。
松葉:高貴なものと低俗なものとは?
門田:乞食と王様、あるいは愚者と賢者が同居しているような感じというか、もしくはトランプのジョーカーのような。ジョーカーはある種一番、立ち位置の低いカードなのですよ。なのに、ものすごく価値がある。そこが美術の面白いところなのかなと思います「裏返す力」が。一見意味がないのだけれどそれに意味を持たせることに成功したときに世界が変わる。例えばBanksyなんて犯罪行為じゃないですか。でもそれ以上に付加価値を作り上げることに成功したから、今の状況がある。そういった感覚はやはり、いままでマイノリティだとか、ダメだとか、否定されてきたものが、自身の存在証明をして、その価値が宿る瞬間に世界が違うものになる。今日まで残っている美術作品はそうやってできてきたはずですし。
松葉:なるほど、普段門田さんと話すことは大体が飲み屋での会話みたいな話なので、今お話ししていただいたようなことは聞いたことがなかったのですが、ちゃんと話を聞くっていいですね。とはいっても、今もアトリエで飲んでいますけど笑。けど、おっしゃっているようにアートだけじゃなくて建築でも「裏返す力」は追求していく必要はありますね。それと、Banksyで思い出したのですが、先日少しお話したアートの分割所有みたいなものってどう思われますか?例えば1000万円くらいするBanksyとかの有名なアーティストの作品の所有権を10万分割して100円からコレクターになれますよって感じのやつですけど。ちなみに僕は当初少し興味があってBanksyとかKawsとかを複数のサイトで試しに10万円分買ってみたのですが、色々考えると馬鹿らしく思えてきて、すぐに売れるものは全部売ってしまったのですが。
門田:それをみんなで買うってことですか?
松葉:そう、オーナーの権利を細分化することで手を出しやすくしアートの流通量を増やし、アートシーンを活性化するって運営側は言っていますけどね。けど、それは後付けかなと。それに、とあるサイトではその権利を売り買いできるようにしていたけど株取引の劣化版みたいな感じで。アートシーンの活性化というよりは金融商品の一つにアートを組み込もうとしてみているのだけど、全然楽しくなくて。正直そんなことやっているなら株を買った方がまだ良いかなと思う。
門田:コレクションの魅力の一つである所有欲のようなものが満たされないところに対して大丈夫なのかという疑問はありますね。
松葉:そうですね。コレクターって大概所有することに価値を感じていますからね。あと、分割所有を皮肉る意味もこめて、Damien Hirstのドットの作品を購入して、一つずつ分割して実際に売るということをやった人がいるって話を聞いたのですが、そっちの方が全然面白い。
門田:美術って結局何なのか?という話なのですが、基本的には人間がそれまで持っていなかった価値をアップデートできたものが芸術作品としての価値が出るのですよね。今美術館に残っている作品、例えばモネの印象派とかも、今日では古びた穏やかなものに見えるかもしれないけど、当時は過激なもので、批判の対象として「まさに”印象”そのものだ!」と、否定された表現だったみたいで、その後のモネたちの努力があって価値をアップデートできたから今の「印象派って素晴らしいよね」という評価に繋がっているわけですよ。それに先ほども触れたけど、元々価値のなかったものを裏返して価値を認めさせる努力をした人達がいてその先に芸術作品になる。だから、投機としての分割所有は現代的だし面白そうだなとは思うけれど、それが果たして新しい価値を創出しているのかと言えばそうでもないし、夢もない。それに社会に対して良い気付きを与えているとも、ちょっと思い難いです。美術は、パイの奪い合いではなくて、開拓者精神みたいなものが本質ではないかと思うので。
松葉:多分海外にある既存のシステムを日本に持ってきたのだと思いますけど、少なくとも日本に落とし込んでいる段階では微妙なのですよね。もちろんこれからなのかもしれませんが、結局アートを使って一山当ててやろうっていう意図がチラチラ見えているところに興醒めしてしまう。しかも、そんなに当たってないという笑。まあ、これは日本のアートシーン全体の問題とも関係しているのかもしれないですが。
門田:もちろんやり方によっては面白いかもしれませんよね。例えば分割所有を逆手に取った作品を作る人が現れたり、あるいは、アーティストではなく敏腕な起業家が、みんながwinwinの仕組みを作って社会還元するものなら面白いのかも。ただ、宝くじ的なシステムのレベルにとどまっているとするとまだ弱いのかなという気がする。松葉さんのおっしゃるように、日本の美術全体に言えることで、結局、海外からの目新しそうな考えの輸入や模倣ばかりだと、残念なんですよね。それよりも、もっと自発的に、才能を発掘・発信する強度が、まだ日本のアートシーンは本当に乏しいので、まずやるべきことはもっと他にあるのではないかなと。
松葉:個人的には1000万円の価値の作品の一部権利を持っていても満足度は低い。だったら数十万円で買える若手アーティストの作品を買おうかなと思いますね。あと作品購入という話だと、僕は結構頻繁に門田さんとか既にコレクションしていたり、これからコレクションしたいと思っているアーティストのHPとかInstagramをチェックしているのですが、HPから簡単に決済して作品が買えると便利だなと思っています。門田さんはHPとかから絵を販売できるようにはしないのですか?
門田:絵描きってある意味、農家みたいなもので、作った野菜(作品)を、ちゃんと農協(ギャラリー)を通さないと、勝手に卸しちゃうとまずいと思う。というのも、作品を世の中に流通させていくのはギャラリーの仕事なので。勝手に売ってしまうと、作品の価値、ブランド力を高める機会を自ら奪っているようなものなので、だから基本的には直接、動かすことはしないです。
松葉:僕は大阪のTEZUKAYAMA GALLERYとかSEZON ART GALLERYで門田さんの作品を購入しましたけど、マザーギャラリーは足利のM画廊ですよね?
門田:TEZUKAYAMA GALLERYさんは、ご自身のギャラリー運営のみならず、国内外のフェアに積極的に出されていたり、フットワークと情熱が素晴らしいということでM画廊の三村さんからご紹介頂いて個展を開催させていただきました。ちなみにM画廊では、毎年一回の個展と、ヤフオクなどでも、作品を紹介いただいています。僕の名前を検索すると、取扱の作品が出てくると思いますよ。三村さんはギャラリストとしても、日本には数少ない一流の方です。
松葉:それに現代アートだけでなく骨董のコレクターとしても凄い方ですよね。以前門田さんの個展のオープニングでM画廊に伺った際に50万円くらいするぐい呑で貴重な日本酒を飲ませていただいて、これまた高いと思われる貴重な器にポテトチップを入れていただいたのですが、そのポテトチップがとても美味しくて。それでこれは何ですか?と伺ったら徳用サイズのすっぱムーチョ梅味だったという笑。とても美味しいので以後近所のドラッグストアで買うようになりました。
食えるアーティストと食えないアーティストの違いとは?
松葉:絵を描くのが好きでギャラリーにも所属しないで絵を描いているのだけど、それでは生活のできない人って多いじゃないですか。一方で門田さんみたいに作品が動いていて、家庭を持って、アトリエも持てちゃう人もいますよね。それについてどう思いますか?
門田:一言で言うと、ちゃんと「プロとして仕事をしている」という、自分の才能で最低限のメシを食べていく自覚があるかどうかに尽きるような気がします。先ほどギャラリーが絵を流通させてくれるという話をしましたが、極端な話、もしギャラリーを通さなくても作品が売れて生活していける能力があるのであれば別にギャラリーに所属する必要はないんだと思います。一方でギャラリーとちゃんと関係性を構築しながら、ステップアップしていく方法もあると思います。まあ正解はないですね。
松葉:門田さんはどうですか?
門田:僕はギャラリーとの関係を大切にしたいタイプですね。僕はM画廊の三村さんをはじめ、日頃から良くしてくださる方との人間関係を大切にしたいなと考えていますで。ただ、正直日本のギャラリーを含めたアートシーンの大部分は、ちゃんと取り扱った作家に責任を持つところが少ないんですよね。具体的にいうと、ギャラリーや美術館などが、自身が企画した展示で、作家の作品を全く購入・所蔵しない状況がほとんどで、その自己判断で評価ができない。自信のなさの表れが、自国のアートシーンを低迷させている、マイナススパイラルそのものだと、まだ気付いていないんですよ。結局、評価の低さや、作品が動かなかったら、作家に責任を転嫁してしまえば楽なので。作家たち自身も大人し過ぎて、そのことを全然意識していない状況がほとんどで。そういう意味で、ちゃんとしたアーティストの育成や作品価値を向上する仕組みが、未だに成立できていないので、残念ながら正直、日本は駄目に感じてしまうところが多いのです。あと一週間いくらとかでスペース貸しするだけの貸しギャラリーとか、存在するのは日本くらいなんだと思いますよ。僕が学生の頃は、それが当たり前で、「通常40万円だけど門田さんは特別に30万円でいいですよ」みたいなオファーが、当然のようにされていました。不動産業と一緒。ただの貸しスペースと名乗るならまだしも、ギャラリーとしての責任を負わないのに、画廊を名乗るのは、いかがなものかと。
松葉:僕も八王子で変な貸しギャラリーをやっている連中が知り合いにいるな。都内で一番安いとか言って笑。
門田:その点、海外の一流と呼ばれるギャラリーはちゃんとしているはずです、「君の作品や才能は本当に素晴らしいから、他のギャラリーには行かないでね」っていう意味も込めて、契約して最低年500万くらいは保障する。そして、ちゃんと自分が認めた才能にギャラリーも責任を負って、作家を売り出す努力をするから作品の価値も自ずと上がっていく。でも日本でそういった意識や動きができるギャラリーは本当に少ないです。
松葉:となると、貸しギャラリーがなくなればアーティストの総数は減ってもクオリティは上がっていくので、結果日本のアートのレベルは上がっていきますかね。
門田:そうかもしれませんね。あとアート業界の問題点にさらに踏み込んで行くと、そもそも教育システムも良くないと思う。日本の美術は、アカデミックな内側の世界に閉じてしまってる傾向があるんですよね。結局、多くの教員が作品で食べていないから。結果、学生もアーティストではなくて、「大学の先生」が日本のアートシーンのトップだと勘違いしている現状があるんじゃないかと思います。先生自身もそういう、自己を省みた教育が、ちゃんとできていないから、ますます日本の美術が組織じみて、国内でしか価値が通じていない身内レベルのものになっていくのではないでしょうか。もちろん、そうじゃない先生もいらっしゃるけど、はっきり言って、大学全体で、どれくらいの美術教員がアーティストとして自立して活動して、作品だけで生活ができるのか?というと、日本では厳しい言い方をすればかなり怪しいですよ。
松葉:その道の専門家であることは間違いないけれども、一方でそれで食べていけるのかという話になるとそうではないこともありますよね。
門田:作品を世の中にきちんと流通をさせたことがない人が教えているケースがあまりにも多いから、机上の空論だけで実践が伴っていない。アカデミックの温室で育てられて外の世界は知らないのでしょうが、外は荒野なんです。アーティストとして生きていくにはその荒野で獲物をとって食べていかないといけないのに、大学とかの教育機関では狩猟の方法なんて全く教えてくれないですからね。それで外にほっぽり出される。
松葉:日本の美術教育の問題点については、村上隆さんも以前から言及されていますよね。あと、そういう話の延長線に愛知トリエンナーレの問題があるのだと思います。一度交付決定した補助金を取り消すというのは制度上問題かなと思いましたし、表現の自由とかもあると思いますが、所詮は嫌なら自分でお金を集めるなり自腹でやれば良いだけなんじゃないかなと思いました。自分でお金出してればよほどの事がない限り、外部からは口出しされないですよね。特に元々反体制の思想信条であるなら体制側の枠組みなんか利用しない方が賢明かなと思います。そりゃ公金が入ったら色々つまらないこと言われますよね。
門田:その通りだと思います。要は作家として、自分の力で食べていければ良いという話になるのですよね。そもそも食べられなかったら、それは表現者としての実力が問われたり、自身の動き方に何か問題があったという可能性が高いので、自ずとフルイにかけられるわけで。それはどの業種でもそうだと思います。作家は作家で、努力と価値を創造する能力と責任を、きっと問われ続けるのだと思います。
松葉:おっしゃる通りですね。それと先ほどアカデミックの美術教育のお話をされていましたが、門田さんも母校の東京造形大学で教鞭を取られていましたよね。その教え子の一人である藍嘉比沙耶さんとは外苑前のEUKARYOTEで「ギャルだからって入りやめてくれ 軽率なギャルはギャルをリスペクトするならやめるべき」という最初何だこりゃ??って思うようなタイトルのグループ展を開催されていましたね。門田さんが一緒に展示を行うくらいですから、凄い才能の持ち主なのでしょうか?
門田:はい、藍嘉比さんはものすごく才能と可能性を秘めたアーティストですので。
松葉:確かに藍嘉比さんの構図を見ているとアートだけでなくイラストレーションもしくはデザインの才能もあるのかなと感じました。
門田:そうですね。春先での展示の展開までしか、僕は彼女の作品を見ていませんが、イラストや漫画などと、美術の境界の違いは、何なのかと日々葛藤しているのだと思うのですよね。けど、それは彼女自身が答えを見つけて壁をつき破り、そして価値観を裏返す必要がある。そのためにまずは、彼女のすべきこと、悩んだことを、全力で制作にぶつけてコツコツ取り組んでいけば良いのだと思います。村上隆さんは日本のサブカルチャーというマイノリティがメインストリームに対して面白いという考えを広めた人ですが、一方でメインカルチャーはやっぱり西洋で、サブとしての日本という構図がはっきりしている為か、ちょっと一歩引いたところで仕事が終わってしまっている気がどうしてもして。だからその先の仕事として、サブというレッテルを打ち破って、あるいはもうそんなことは関係ない場所で、胸を張ってメインと並べるような魅力を持つものに状況をシフトできれば、すごいと思うんです。そしてポスト村上隆の、自分の言動に責任を持って有意義な価値観を生み出せる人間として、藍嘉比沙耶が成長してくれれば、日本の美術はもっと面白くなるんじゃないかなと、勝手に思っています。これは藍嘉比さんに限らず、教え子みんなに伝えたいことですが。
松葉:それが出来たら凄いことですね。それと、門田さんも以前「僕は村上さんがやってないことやります」と仰ってましたよね。
門田:僕は村上さんのような仕事はできないのだけれど、僕なりのやり方で、美術の文脈を継承しつつ、新たに拡張したいと思っています。それは、きっと難易度は高くて、易々とできることではないでしょうけど、直感で僕のやるべき仕事だと感じています。
「門田」から「KADOTA」
松葉:そのための第一歩が昨年にNYのLincoln Centerで開催された個展「KADOTA」だったのでしょうか?NYから帰ってきた後に個展開催のお話を伺ったのですが、そもそも何故NYで個展を開催することになったのでしょうか?
門田:元々はSEZON ART GALLERYがきっかけです。僕の個展ではなかったのですが、地下1階にあった飲食スペースに僕の作品が飾ってあったのをNYのコレクターが見て興味を持ってくれたのがきっかけです。それがNYのコレクター伝いで話題になり個展を開催する運びになりました。
松葉:SEZON ART GALLERYは僕もよく通いましたが、知らないところでそんな凄いことのきっかけを作っていたのですね。NYの展示は盛況でほぼソールドアウト状態だったそうですね。
門田:はい、特に嬉しかったことはCy Twomblyの甥のCody Franchetti氏が作品をコレクションしてくださったことなのですが、Rothschild家の方だと知らなくて、現地でスタッフに教わって二度驚きました。「門田の作品がポリクロマティックなのだけどクロマティックに見える」とおっしゃっていただきました。クロマはラテン語で色のことなのですが、要は複合的な色彩がまとまって見えるということです。その表現がとてもユニークですね。海を越えた場所で、本当に作品で繋がることがあるんだと、勇気をもらいました。
松葉:Rothschild家の方にコレクションされるというのはかなり凄いですね。しかもMoMAのサイトにも個展開催の情報が掲載されたそうですね。
門田:はい、MoMAのサイトにMITSUMASA KADOTAの文字が載っているだけなのですが、それは結構すごいことだと自分では思っています。MoMAは、美術の世界では、なかなか立ち入ることのできない、胸を張っていい頂点の一つだと思っています。今回はまず、エベレストの頂上に自分の手形をつけてきたような、あるいは月面に足跡をつけたような感覚があります。ただ一方で、この達成感が日本の美術界には、うまく伝わらないことは少し寂しいのですが、むしろこの隔たりが、日本のアートシーンの世界との距離そのもののような気がしています。MoMAのHPにアーティストの名前が残ることは凄いことのようで、むしろ今回招聘してくれたコレクターサイドから、「絶対自分のHPでも紹介したほうがいいよ」と言ってもらえました。今回の個展は、向こうの方のさまざまな力添えがあって、MoMAのYoung Patron Programという助成にも通って開催が実現できたそうで、作品が海を渡って、海外の有意義なコレクターのコレクションにもなり、世界の文脈の方から、僕の作品を評価してくれたという凄い出来事だと思っていて、このようなコンタクトがあったことは、日本のアートシーンにとっても大きな意味を持つことだったと、勝手ながらに思っています。
松葉:はい、とても凄いですが、門田さんはもっと凄くなるはずなので、これ程度では驚かないようにします笑。それにしても門田さんのアーティストとして人生においてセゾンとの接点はかなり重要な出来事だったということですね。僕もセゾン繋がりですし笑。それはともかく昨年は小野耕石さんと2人で「The ENGINE 遊動される脳ミソ」というグループ展も開催されていますよね。
門田:元々セゾン現代美術館との関係は前任の館長であった難波英夫さんの目に留まったことから始まりました。白っぽいトレースの作品を描いていた時代です。当時僕は偽名を使って活動していました。風貌も昔から日本人離れして見えていたらしく、小さい頃、ミャンマーとかインドとか、呼ばれたこともあって、最終的にはさらに西に行ってアラブって名乗って笑。
松葉:なんだそりゃって感じですね?
門田:はい。けど、セゾンって掘り下げていくと面白い美術館だなと思います。創設者の堤清二さんは経営者でもあり、かつ小説家辻井喬という顔も持つ二重性を持った方なのですよね。亡くなられた後に開催された「堤清二/辻井喬 オマージュ展」のテキストの中に「二つの行為(経営と詩を作ること)は本来矛盾するすべきものではなく、それが矛盾して感じられるところに時代の様相がある」とあったのですが、それが凄く良いなと思っていて。自分が当然のことをやっているだけなのだけど、それが相容れないように思えるのは、むしろ時代の滑稽のようだという捉え方が、とても大きく重要な視点だなと。ある種の多重性を孕んだ美術館という考え方がセゾンの特徴ではないか、と思います。今、清二さんの御子息のたか雄さんが館長をされていますが「自然と共生する美術館」と掲げています。共生というのは、闘争の反対の意味を持つ言葉で、「共」というのが2つの何か可能性も感じさせるニュアンスがありますよね。これは僕の推測ですが、だからこそ、たか雄さんは美術館とギャラリーって相反するものにもチャレンジしたんだと思います。
次のステージに行かないといけない
松葉:そのセゾンの二面性という視点は僕は全然意識していませんでした笑。今度3人でご飯でも食べて色々話を伺ってみたいですね。それと、昨今の一番のトピックスといえばコロナですが、影響ってありました??
門田:個人としては、幸いなことにあまりないですね。むしろ東京のような中央からは外れて活動していたので、作品自体は逆によく動いて、この状況で、本当にありがたいことだと思っています。ただ、東京に象徴されるように、今までそのピラミッドの中で生きてきていた人たちは、そのメカニズムが破綻して大変な目に合っているように思えます。人類って同じサイクルの中で循環を作って経済を回していくという巨大なアート作品のようなものを形成している。けどそれが今日の伝染病によってうまく機能し難い瞬間にきている。困っている人がいる中でいうのも失礼ですが、不思議な感覚です。経済が、常に同じ回転力だと思って、その内側で商売してお金を得ていた場合は、そのメカニズム自体が壊れたり崩れたりすると困るんですよね。
松葉:既存のシステムや思考で何かをやろうとするのには限界がきている気がしますよね。
門田:これまではそれが、ずっと上昇していくイメージがあったんでしょうけど、今回のコロナで、少し違うのかなという感覚が生まれてきていますね。
松葉:建築で言うと何か作られたようなおしゃれの最先端みたいな場所とかが厳しいのかなと最近強く感じています。例えば今年はオリンピックに向けて新しく商業施設作りましたとかホテルがオープンしましたという話題が多いのですが、少し寒々しく感じていています。元々は個人住宅とかなんかよりも最先端の商業施設とかホテルの設計やデザインをやりたいと思っていたし、今もそういうことには関心もあるのだけど、一方でなんかもう時代遅れなんじゃないかと思う自分もいる。それはファッションとかでも同じで、個人的には今でもGUCCIとかBALENCIAGAのようなハイブランドも好きだし買ったりもするけど、ちょっと引いた目でみるとなんか寒々しくも思えてしまうという。何か次の一手を見つけていかないといけない気がしてならないのですよね。
門田:建築やファッションは詳しくはないけれど、経済を回す人間活動の中で、美術とは違ったややこしいことが多いだろうけれど、それはそれで意味や面白さがあるように感じます。いずれにしても、新しい仕組みとか方法論とかを、既存の枠組みを超えて、人間がもっと深い部分で賢くなっていく必要があると思います。
松葉:経済の話にも関係ありますが、日本のアート市場規模は世界全体の3%程度だと思うから年間の取引額がざっくり言うと2500億円くらいだったと思います、正確な数字ではないかもしれないし、統計によって違うかもしれないですけど。まあ、いずれにしても規模が欧米に比べて小さい。そして、アート市場をしている人達の中にはそれでは規模が小さいからこれからもっと規模を拡大して行こうという主張されている方もいます。今までの価値観だと市場が大きくなっていった方がいいのでしょうが、先ほども触れましたが拡大成長が本当に必要か今問われている気がしています。そして、あくまでも僕の考えですが、日本の場合まずは規模の拡大よりちゃんとしたアーティストがちゃんとした仕事をしていく方が重要かなと。そもそも日本人のアーティストで売り上げをつくっている人達って、草間彌生さんと村上隆さんだけだったはずですから。あとは杉本博さんとか奈良美智さんとか一握りの限られた方々です。ワールドクラスって意味でいうと建築家の方が多いかもしれない。まずはその状況を変える方が重要かなと。
門田:そう。日本では、みんな右向け右になってしまうのですよね。一人成功するとみんなそこにいってしまう。すごく偏ってしまう。物事の考え方、視点って360度あるはずなのに、一つの方向ばかり偏ってしまう傾向が日本人には何故かある。価値観の偏りは同一民族の限界や、島国根性のような、国土の輪郭がはっきり固まっている限界そのものに感じてしまう。大陸の人たちは生まれながらにして多民族国家で、攻めたり、攻められたという中で今日を構築してきたわけで、国をまとめるのも、イデオロギーだったり宗教だったりしていたわけで、もちろん色々な問題を孕んでいるでしょうけど、作家にとっては多角的で柔軟な主観を養う土壌が、歴史的に培われていることは有利だよなと感じてしまいます。ま、日本は日本の視点で、バネにできることがたくさんあるとは思いますけど。
松葉:僕も10年くらい前までは社会性が無いとか散々言われましたからね。社会性って何だよ?って思いましたが、突き詰めると結局みんなと一緒の行動ができないっていうだけなのですよね。けどそういう事を言っていた人達は僕の目の前から消えていましたけどね、どこで何をやっているのだか笑。
門田:僕らはそろそろ次のステージに行かないといけないと思います。そういう意味では、日本国内が、現状維持の閉塞的なままだと、厳しいと思います。10年、20年は遅れているといっても良いような状況で。日本でも素晴らしい人材はたくさんいるが、結局世俗とは一線を画していたり、日本から出てしまうケースが多いように思う。これだけ多様な価値観や、ダイバーシティが加速する現代なのだから、逆に言えば全体のステージを上げていかないといけない。あと、アメリカに行って非常に印象的だったことは、現地で知り合ったコレクターが、美術の成績が悪かったから行きたい大学に行けなかったという話をしていて、向こうの大学は美術の成績をちゃんと重要視してるんですよね。
松葉:そのあたりは僕も意識していて、まだ世界に行けてないにも関わらずアートと社会貢献はワールドクラスへの必修科目だと思っていました。それに自国の文化をきちんと知っておくという意味も含めてそろそろ茶道を始めようと思っています。そうすると着物も着るようになるでしょうし。
門田:今の日本の教育だと逆にそういう教養にかける時間数を減らそうとしているのですよね。美術は、学問に必要のないものという認識で。根本的な方向性からしてよろしくないというか、情けないというか。欧米に限らず、普通先進国では、あくまで一般教養として現代美術の流れとかを学んでいる。デュシャンとかロスコとかの話を、当然のようにできるんですよ。向こうのトップは政治家ですらそういった話をできるのに、日本のトップにはそういった期待は、ちょっとほとんどできないですよね。美術を知らないということは、時代に逆行しているようなことですし、アートを生業にする者としてというより、日本人としても、より外の世界に価値観を発信しないといけないときに、感覚や感性の掘り下げや、物事の自己判断ができないことは、残念ですし、そういうところも含めて、世の中の価値観を変える必要はあると思っています。
テキスト・撮影:藤沼拓巳
株式会社 TYRANT 代表取締役 / 一級建築士 ( 登録番号 第 327569 号 ) 1979年東京都生まれ。東京藝術大学大学院修了後、事務所勤務を経ることなく独立。人生で初めて設計した建物が公共の文化施設(旧廣盛酒造再生計画/群馬県中之条町)という異例な経歴を持つ。また、同プロジェクトで芦原義信賞優秀賞やJCD DESIGN AWARD新人賞などを受賞。