設楽洋
ビームス代表取締役。1951年東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。1975年株式会社電通入社。プロモーションディレクター・イベントプロデューサーとして数々のヒットを飛ばす。1976年「ビームス」設立に参加。1983年電通退社。自らをプロデューサーと位置付け、その独自のコンセプト作りによりファッションだけでなく、あらゆるジャンルのムーブメントを起こす仕掛人。セレクトショップ、コラボレーションの先鞭をつけた。個性の強いビームス軍団の舵取り役。1997年ニューヨークADC賞 金賞受賞/デザイン・エクセレント・カンパニー賞受賞。
松葉:「Outsider Architect」の15回目は、株式会社ビームス代表取締役社長の設楽洋さんにお話を伺っていこうと思います。まずインタビューとは直接関係はないのですが、先日東京・青葉台のVOILLDで開催されていたアーティストユニットmagmaの展示会では、複数の作品をお買い上げになったとお聞きしました。というのもmagmaのマネジメントをしているモーフィングという会社はこのPARTNERの運営会社でもありまして。
設楽:そうなのですか。買ったのはいいのですが、置き場がなくて預かってもらっているのですよ。興奮して色々買ってしまいました。
松葉:実は僕もアートコレクションが趣味で会期終了間際に行ったのですが、会場にミシュランのビバンダムみたいな作品があって、モーフィングの社長に「これいいね!」って言ったら、「設楽さんがお買い上げになりました」と。「これもいいね!!」「それも設楽さんが・・・」「あ、ほとんど売れちゃったんだ・・・」っていう話で(笑)。アートは色々とお持ちなのでしょうか?
設楽:ピカソとかゴッホとかそういうのは持っていませんが(笑)、アートが好きなので。
松葉:なるほど、そういったところも後ほどお伺いできたらと思います。
BEAMSは日本初の「ライフスタイルショップ」
松葉:まずはBEAMS設立時のお話をお伺いできますか?
設楽:私は1951年生まれなのですが、当時、男の子はアメリカに憧れ、女の子はパリに憧れるというような時代でした。その頃はアメリカが一番輝いている頃でして、私もアメリカ音楽に目覚めたりテレビのホームドラマでアメリカを見て憧れ、いつかアメリカのライフスタイルを日本に紹介するようなことができたらなと心の中で思っていました。それに加え、大学は経済学部に進んだのですが、本当はクリエーションに近い建築やインテリア、それにアートなどに関わる仕事をやりたかったのです。それで、学校を卒業して経済学部から行けるところでクリエーションに近いところはどこだろうと考え、結果広告代理店の電通に入社しました。
松葉:電通に在籍しながらBEAMSの立ち上げにも関わられていたとお聞きしましたが、それは何故だったのでしょうか?
設楽:やはりアメリカに対する憧れと、そういったものが手に入らなかったという時代性ですね。当時のインポートブランドというのは、百貨店で取り扱う世界のスーパーブランド、グッチやエルメス、それにルイ・ヴィトンなど、もしくはアメ横や横須賀の米軍放出品しかなくて。その間のものがなかったのでそれをやりたかったというのがあります。それから、モノの中には文化がある。だからモノを扱いたいとも考えていました。それらがBEAMS立ち上げのきっかけですね。当時は今のBEAMSの姿は思い浮かべていなかったですから、趣味の一環ぐらいの小さい店をスタートしました。
松葉:最初のお店の広さは6.5坪だったと。
設楽:そうですね。でも6.5坪といっても実際は3坪ストックに使っていましたから、お店は3.5坪で7畳の店でした。
松葉:場所は原宿周辺なのですか?
設楽:今の「ビームス 原宿」の一番左奥の一部ですね。そこの一階が約45坪くらいあるのですが、当時は5軒の小さな店の集合体だったんです。そのうちの1軒でした。
松葉:BEAMSは主に洋服を扱っている会社だと思うのですが、それ以外にも様々な展開をされていますね?
設楽:40年前のスタートから約2年くらい、BEAMSの看板の上に「アメリカンライフショップ」とつけていました。洋服屋をやるというよりも、アメリカの大学生の生活の店をやろうと。要は40年前からライフスタイルあるいは生活文化提案型の店でした。ここ最近、さまざまな業種が「これからは生活文化提案だ」「ライフスタイルだ」と言っていますが、私達は40年前に「これからはライフスタイルだ」と言って、アメリカの大学生の部屋にあるようなものを置いてライフスタイルを提案していました。
当時はあまりお金がなかったですから、やはり売れるモノを置きたいなと。ろうそく立てだとかネズミ取りだとかは売れないですからね(笑)。Tシャツやデニム、それにスニーカーがよく売れるので増やしていって、徐々に洋服屋やファッションに近い業態になっていきました。だから今と昔の違いは事業のスケールだけで、ファッションが中心になってはいますが、音楽やアート、家具や食、そういうライフスタイル全体を提案しているということにおいては、規模の大小に関わらず当時からずっと変わっていないことですね。
松葉:なるほど。今でこそどこもかしこもライフスタイルショップという打ち出し方をしていますが、40年前の当時では珍しく、BEAMSは設立当時からそのようなコンセプトだったのですね。
設楽:たとえば、食器だけとか、飲食だけとか、あるいはレコード屋だとか、ジャンルごとの専門店はありましたが、複合でやっているところはありませんでした。あとは街の一角のいわゆる万屋さんみたいに色々なものを売っているお店はありましたが、そこにセンスやキュレーションを持ち込んだ業態はなかったですよね。後に「セレクトショップ」と呼ばれるようになりましたが、私達自身は「インポート型の品揃え店」という言い方をしていました。
何も無かった原宿に次の文化が生まれるのを感じた
松葉:ちなみに何故原宿を選ばれたのですか?
設楽:当時は小さい店でしたけれども、それでも「日本の若者の風俗文化を変えよう」ぐらいのつもりでいました。志だけは大きくて(笑)。それまでの風俗文化というのは、ほとんど夜の街で生まれていました。六本木や新宿、それに赤坂などのディスコやジャズ喫茶、あるいはレストラン、そういうところに当時の「早い人たち」、例えばデザイナーやミュージシャン、テレビプロデューサーが集まっている時代背景があって。世界的な潮流もそうでした。60年代はベトナム戦争があり日本では学生運動があったりで、音楽もジャズやソウル、それにフォークとかの戦争反対という文化が中心でした。ところが60年代後半にベトナム戦争が終わり、アメリカの西海岸の文化が日本に入ってきて、音楽が急に軽いカリフォルニアサウンドになりました。私が通っていた大学も最初は学生運動の名残があったのですが、その看板も取り払われて青い空が広がって。急にウェストコーストの風が吹いてきて昼の文化になりました。第2期のサーフ文化というか。また、今まで夜の世界、それこそ赤坂のムゲンや六本木のキャンティ、それに新宿の凮月堂に集まっていた人たちが、原宿のネオンという喫茶店に昼間に集まりはじめて。
松葉:次は原宿から文化が生まれそうだと直感的に感じていたいということでしょうか?
設楽:そうですね、流れは原宿に来ていて、これから昼の健康的な風俗文化というものが原宿から生まれそうだなと感じていました。もちろん当時は何もなかったのですが、キラー通りにはニコルの最初のニットのお店があり、ハリウッドランチマーケットの前身である極楽鳥があり、竹下通りに2軒だけ店がある。そんな状況でしたが、何かそこに風が吹いているのを感じて。それで元々原宿にあった八百屋さんの建てたビルの1階の隅6.5坪に店を開いたのです。
松葉:僕は今36歳でして、初めて原宿を意識したのが、UNDERCOVERやA BATHING APEに代表される「裏原文化」だったと思います。それが今から約20年くらい前だと思いますが、今設楽さんがおっしゃっていたお話はさらにその20年前のお話ですね。何か時代は繰り返しているのかなという風にも思えるのですがいかがでしょうか?
設楽:40年前は私達が20年前の裏原文化に近かったわけですね。それまでは大手メーカーによるナショナルブランドが全盛だったのですが、一方でそれでは飽き足りないという若い世代が出てきて。「ナショナルブランドは確かに良いけどそれでいいの?」「もっとトガったことやらなくていいの?」という流れのなかでBEAMSはスタートしました。また原宿のセントラルアパートには、メジャーに飽き足りない若者たちがのちのDCブランドになるインディーズのマンションブランドというものを立ち上げて。それが後のデザイナーズブランドになっていくのですけども。そういう新しいムーブメントが次々と出始めた時代でした。
ファッションは流行り廃りがあるから面白い
松葉:40年前、20年前と時代を経て、今の原宿というのはどうなのでしょうか?
設楽:裏原の中から残ってメジャーになった人もいるし、一方で消えてしまったところもあるし、もちろん当時の規模のままずっと続けているところもあるしという状況です。40年も原宿にいて歴史を見ていると、例えば何々族みたいなものとかゴスロリだとか、いろんなスタイルが出てきては消え、出てきては消え、竹下通りにタレントショップが出てきて隆盛を極めれば、すぐ消えていく。日本のファッションの変遷が手に取るようにわかります。その中で、残っていくものと消えていくものとある。もちろん両方ファッションですからね。でもこれは、ファッションだけじゃなくて飲食も音楽にも当てはまること。流行りものっていうのはみんないずれ終ってしまいます。ずっと続けていくことは大変なことですよね。
松葉:先日トランジットの中村さんにお話を伺った際も、カフェブームの時も同じような状況でほとんどは消えていったか、細々と今も続けているかのどちらかだとおっしゃっていました。
設楽:ファッションの流行り廃りも、川の流れのようで、例えば桜が川の流れに落ちたときに、ふわふわ流れていっちゃうものと底に沈殿するものがありますよね。ふわふわ流れていっちゃうものというのは、所謂“時代のあだ花”として一発屋と呼ばれるような一過性のムーブメントです。そうではなくて、底に沈殿するものが長く続く「ライフスタイル」になっていくのです。BEAMSにはその両方の要素があるから面白いのです。
松葉:なるほど。ちなみに40年間この移り変わりの激しい原宿という街を相手にして、BEAMSは王者として勝ち残ってきたっていう認識を持っています。それは単なる流行だけではなくて、常に時代に適合してきたからだと思いますがいかがでしょうか?
設楽:BEAMSが何とかいい位置で40年間来られたというのは奇跡に近いかなと思います。特にこの街にいるとよくわかるのですが、これはどの業界でもそう、旬を追いかけて長く続いた例はなく、旬は必ず新しい旬に凌駕されるという歴史を積み重ねています。ピークを極めると必ずアンチが出てきて、同じことをやっていると「最近終わったよね」ってすぐにお客さんはそっぽを向いてしまいます。
セレクトショップは雑誌の編集と同じ
設楽:その中でBEAMSが何とか生き残って来られたのは、1つは「セレクトの業態」であるということだと思います。今でこそブランドのように思われていますけれども、BEAMSはブランドではありません。どちらかというと雑誌作りに近いのかなと思っています。表紙のタイトルは一緒ですが、中身はその時々で変えられる、そんな雑誌の編集をしているような感じです。普通のブランドと違って、毎シーズン全部変わってしまうということではなく、実は創業からずっと展開しているものもあります。ナイキやリーバイス®、それにコンバースなどは、創業以来やっているんです。もちろん、時代の旬の物はどんどん入れ替えて紹介していく。「セレクトショップ」という言葉が無かった頃は「エディターズショップ」と勝手に言っていました。そういう業態だと次の波が来たときにちゃんと変われるのですよね。だから逆に言うと、BEAMSをひとつで表現するのはすごく難しい。何故なら色々な顔を持っていますから。ストリートが流行ったり、モードが流行ったり、あるいはトラッドやアメカジが流行ったりした時も、必ずBEAMSは片足をかけている感じです。そうしないと1つの流行が終わってしまうとすぐに廃れてしまいます。常に多面的な顔を持っているところが強みだと思っています。
それからもう1つは、あまり事業計画に縛られないということだと思っています。もちろんビジネスでやっていますので全く事業計画がないわけじゃないのですが。通常は1つ成功するとすぐに「何年後には同じ手法で何店舗展開します」という事業計画を立てますよね。しかしBEAMSの場合は、どちらかというと自然発生的に、「この流れが来たからこういう店があったらいいんじゃないか」とか、あるいはスタッフがある程度年齢重ねて、結婚して子どもができたから子ども服やろうよとか、スタッフたちが思ったことがその時代に合わせてかたちになっていくから、無理していないのですね。「サーフィンに近い」って言ったらなんの事業計画もないみたいですが、「次の良い波が来たらそっちに乗っちゃう!」みたいな感じです(笑)。本来1年先のことも読めないのに5年先の事業計画なんか立てられないじゃないですか。だからBEAMSはそれをやらない。それがすごく大事なことなのかなと思います。
松葉:なるほど、よく聞く話で、最後まで生き残るのは最強の生物ではなくて変化に対応できる生物という話がありますけど、まさにそういうことなのでしょうね。あと、自分が少なからず裏原文化に影響を受けたということもあるのでお聞きしたいのですが、20年前の裏原は文化になったと思われますか?
設楽:文化というものを何と捉えるかということがありますけども、裏原はある種の文化にはなったと思いますね。ライフスタイル全体の文化か、いわゆるカルチャーかと言われるとそうじゃないかもしれないけども、若い人の考え方だとか、もの作りの見方だとかには各人に影響を与えていると思います。それまでの私達の世代は、アメリカに憧れるとかパリやミラノ、ロンドンとか、海外のモード、流行をお手本にするという発想でした。ですが、80年代後半に生まれた渋カジというスタイルが初めて日本人が海外コンプレックスではなくて自分たちのクリエーションを評価するきっかけとなり、その後に誕生した裏原が新世代の担い手となって、海外の人もその日本人のものづくりを認めたということにおいては、ある種の文化かなと思います。裏原以降、私達日本人は語学以外の海外コンプレックスがなくなってきているんじゃないでしょうか。若い人たちは平気でJ-popが好きだと言える。昔私達が好きでもかっこわるくて言えなかったことを、今は堂々言えますし。
若者は情報があふれているために飢えている
松葉:確かにおっしゃる通りかもしれませんね。建築の場合少し背景は違いますが、やはり海外への憧れから脱却し日本固有のスタイルを築き上げ、そしてそれが世界的に評価されるようになりました。40年間原宿の地で時代を見てきた設楽さんにとって今という時代はどのように映りますか?そしてその時代にどのようなことを仕掛けて行こうとお考えでしょうか?
設楽:40年前にBEAMSがスタートしたときは「セレクトショップ」という言葉もありませんでした。モノと情報がなかった時代にそれらを与えていることこそ、セレクトショップの役割だったのだと思います。例えば「この商品は見たことないでしょう?」といって見せてあげること。かつては若い人はモノと情報に飢えていたのです。それから40年経った今の若い人はモノと情報があふれているために、逆にまた飢えているのですね。何が正しいかわからない。おそらく今は、当時の1000倍以上の情報が入ってきている。PCで、携帯で、SNSで。そんな時代における今のBEAMSの役目というのは、BEAMS流のフィルターを通して「これが正しいんじゃないの?」「これがかっこいいんじゃないの?」と提案することなのです。結局時代が変わっても飢えていることには変わりない、飢えの形が違うのです。
また、かつては「便利でないことの喜び」というものがあったのだと思います。何かを探そうと思っても情報がないですから、まず訳知りの人を探すところから始まるわけです。「こういう物が欲しいんだけど、どこで売っているかわかんないから知っている人いないかな?」そして、その人にたどり着いて「それはアメ横か横須賀、なければ福生にいったらあるかもしれないよ」と聞いたら今度は足を運んで必死に探す。そうやって見つけ出した時はすごく嬉しいですよね。一方、今の人たちはスマホで検索すれば大概の欲しいものは出てきて次の日に届いてしまったりする。ですから同じものを手に入れても喜びの度合いが違うわけですよね。
セレクトショップの第一人者としての次の一手
設楽:そういう時代に、私達はファッションを中心としてお客様に喜びを与えているわけですので、どういう喜びが今の時代に、また次の時代に与えられるかというのを考えていくべきです。どのようにしてビジネスに繋げるのかというと、今までは私達は店舗を持ちセレクトを中心とした小売を行ってきました。けれど今はネットの時代、ユーザーにどうやって商品に辿り着いてもらえるかというのが鍵になる時代じゃないですか。そうなってくると、セレクトショップであるBEAMSが持っている「キュレーションの力」が次のビジネスになるのではないかと思っています。
一昨年、楽天の三木谷浩史さんから楽天にBEAMSの商品を出品して欲しいと言われました。しかし、BEAMSは自社ECサイトに加え、ZOZOTOWNやAmazonにも既に出店しているので、ならば楽天で扱う1億3千以上の商品をBEAMSでセレクトさせて欲しいという話をしました。これはスーパーブランドにもファストファッションにもできません。ただBEAMSにはできることなのです。
松葉:なるほど、確かにセレクトショップの草分けであるBEAMSらしい次の展開ですね。ちなみに4月末にオープンされた「ビームス ジャパン」は日本をテーマにしたセレクトショップですが、どういった経緯でオープンされたのでしょうか?
設楽:私達は40年間海外の良いもの、あるいは海外の良い文化などを日本に届けて紹介してきました。もちろんそれは今後も続けていきますけれども、一方で日本の良いものを海外に届ける必要性も感じています。モノやコト、それに文化を海外に出すことをやっていきたいなと。2020年に東京オリンピックを控え、今世界的に日本ブームですよね。しかし、今のブームに乗っかる短期的なビジネスにはしたくありません。長年日本で暮らしてきましたが、正直私もまだまだ知らないことがあるんですよね。「こんないいものが日本にあったのか!」という感じで。そういったものを伝えていくプロジェクトとしてBEAMS“TEAM JAPAN”を立ち上げました。「ビームス ジャパン」はそのプロジェクト拠点となるお店です。これは決してインバウンド対策でやっているわけではありません。むしろまずは日本人の方に大勢来ていただいて、「日本ってかっこいいな!」と感じてもらえたらと思っています。
松葉:日本にも世界に誇るべきものがたくさんあるということでしょうか?
設楽:そうですね。世界に持って行く前にまずは日本人自身が日本を再確認することが重要かなと思っています。そして、それができたら日本人のプライドと望みを持って海外に出ていきたいなと思っていますね。あと、基本的にBEAMSではファッションを中心にバイイングしていましたが、「ビームス ジャパン」では職人さんや地方自治体から頂くご提案をセレクト、コラボレートして、ポップアップみたいな形で文化を紹介するというようなこともやっていきたいと思っています。というのも、今までの"Made in Japan"をうたう企画は産地の出したいものをそのまま出す物産展になってしまうことが多かったんです。けれどBEAMSが仕掛けるならば、やっぱりBEAMSのフィルターを通す事で、お互いのアイデアと技術を更に魅力的にした商品を提案したいです。
松葉:なるほど、月兎印のスリムポットとかここ最近自宅で使用しているのですが、最初に見た時にこんなにかっこいいポットが昔からあったのかと思いました。ちなみに、「ビームス ジャパン」別注のネイビーのスリムポットはもう作ったりはしないのですが?オープン直後に見て良いなと思い、近いうちに買おうかなと思っていたらあっという間に完売になってしまいました。
設楽:個数限定の販売で。作りたいのですけど作れないのですよ。
松葉:あるときに買っとけば良かったですね。
設楽:そうなのですよ。やっぱり別注品はどうしても数量が決まっているもので。
松葉:あのポット見たときに、日本の藍色で良いなと思ったのですよ。それで普段対応していただいている新宿ルミネにある「ビームス」の担当の方に連絡して取り置きしてもらおうと思ったら、調べたらもう完売ですって返答で。「ビームス ジャパン」に行ってももうないのですか?と聞いたらありませんと。ですが今日来たらひょっとしたらあるかもしれないと思っていたのですが、やはり完売なのですね(笑)。
設楽:1~2日くらいで完売してしまった商品も相当ありますからね。オープンのときに行列が5列も出来ましたから。ですが万が一できたらお知らせします(笑)。
松葉:ぜひお願いいたします。話は変わりますが、冒頭でお聞きしたアートコレクションに関しても少しお話をお伺いしたいのですが、magma以外にも色々とアート作品をお持ちなのでしょうか?
設楽:僕は比較的モダンアートが好きなのですけども、欲しくても高くてとても手が出ないものも多いですよね(笑)。あとはモノクロのポートレート写真を結構コレクションしています。ホルスト・P・ホルストだとか、アーヴィング・ペンだとか、ポートレートを中心にモノクロームのオリジナルプリントが好きで。安くはないけども、ゴッホやピカソほどではないので。それに加え、これから出てきそうな新人の方達の作品もコレクションしています。magmaもそうですし、今あそこにかかっているのは市川孝典さんの作品です。ちなみにあの作品、写真に見えるでしょ?けれど実は2万4千本のお線香で穴を空けているアートなのですよ。頭おかしくなっちゃいそうです(笑)。
松葉:アーティストって大抵頭おかしいですけどね(笑)。
設楽:下絵も何もなしに、右上から左下にプリントアウトのように制作するらしいのです。下地に漆を塗ってその上に和紙をはってお線香で穴をあけていくのですけど、4日間だけその前に立つと自分の記憶のなかの風景が投影されるらしいんですよ。で、4日間で消えちゃうらしいです。だから大作も小作も空気清浄機を30台くらい置いた中で、4日間で仕上げる。そういう新しい、これから出てきそうな人とかに興味がありますね。
松葉:僕はコレクション歴がほんとここ1年くらいでまだまだなのですけど、最近買ったのはこの絵なのです。多彩な色使いが好きで一目みた瞬間に買おうと思いました。門田光雅さんという画家の絵なのですが。
設楽:若い方ですよね。私も会ったことがありますよ。
松葉:ご存知でしたか。ちなみにまだまだ新米のアートコレクターなので、最近は先輩のアートコレクターの方にお会いした際には、おすすめのアーティストとかをお聞きしているのですが。
設楽:ギャラリーはよく行ったりしますか?
松葉:正直、門田さんの絵を買ったギャラリー以外はどこに行ったら良いのかわからないのですよね。最近は杉本博司さんの有名建築をピンボケで撮影したシリーズが欲しくて、杉本さんの所属ギャラリーに行ってみようかなと思っているのですが、新米には少々敷居が高いかなと(笑)。
設楽:ジャンルにもよりますけど、まず超若手だったらBEAMSのギャラリーに是非来てください(笑)。あとは意外にオススメなのが、神保町の古本屋街に行くといろんなジャンルのアート作品があって、登録すると資料を送ってきてくれます。通常のギャラリーより安いですし、多ジャンルですね。書であったり、村上隆みたいな有名なモダンアートであったり、無名の人のであったり。その資料を見ているだけで面白いですよ。
松葉:それは知りませんでした。最近、神保町にある店舗の移転計画に関わっていてよく行くので今度調べて散策してみたいと思います。ありがとうございました。
協力:藤沼拓巳
株式会社 TYRANT 代表取締役 / 一級建築士 ( 登録番号 第 327569 号 ) 1979年東京都生まれ。東京藝術大学大学院修了後、事務所勤務を経ることなく独立。人生で初めて設計した建物が公共の文化施設(旧廣盛酒造再生計画/群馬県中之条町)という異例な経歴を持つ。また、同プロジェクトで芦原義信賞優秀賞やJCD DESIGN AWARD新人賞などを受賞。