自分で自分を大事にする。そこからはじまる私らしい作品づくり 陶芸家・川嶋理良

はるな陶芸工房の陶芸家・川嶋理良(かわしま りら)さんとの出会いは、コロナ禍2021年1月に開催した「伊香保くらし泊覧会」。このイベントは、群馬県伊香保温泉旅館での宿泊を通じて「県内作家の器などの作品を、各客室で三密を避けながら体感できる」という内容で、私は実行委員の一人として運営を行っていた。はじめて声かけをした作家が彼女だった。緊張しながら電話をかけると、「は〜い!」と明るく朗らかな声がする。イベント趣旨を伝える私の言葉にしばらく耳をかたむけた後「とても素敵な企画ですね!」と参加を快諾してくださった。りらさんは、手紙社が主催する紙博&陶博のイベントに出展するなど、全国にファンが多い作家さん。かわいらしい作風だけでなく、人柄がとにかくかわいらしい。まさにその人柄を、作品のなかに感じた。「もっとお話をお伺いしたい」そう思わせてくれるりらさん。今回も快くインタビューを引き受けてくださった。

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  • photo by wm photo design 茂登山茉希

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​はるな陶芸工房 川嶋理良(かわしま りら)
〜略歴〜
1993  石川県立九谷焼技術研修所卒業
1996  オーストラリア国立大学陶芸科ディプロマ修了
1998  沖縄県名護市勝山に陶芸家 田部井健二氏と共に「嘉津宇窯」を築窯。同時に教室を始める
2000  群馬郡榛名町 (現 高崎市)に「はるな陶芸工房」創設​
2016  LEXUS NEW TAKUMI PROJECT 2016匠群馬選出
HP instagram

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  • 自然豊かな場所にある、はるな陶芸工房 photo by wm photo design 茂登山茉希

ebichileco:りらさん、お忙しい中ありがとうございます。伊香保くらし泊覧会では大変お世話になりました。コロナ禍でオンラインでのインタビューとなりましたが、今日はゆっくりとお話をお伺いできるということで嬉しいです。

りらさん:いえいえ、こちらこそです!よろしくお願いします。

ebichileco:まずはじめに、りらさんがいらっしゃる「はるな陶芸工房」がどんなところにあるか教えていただけますか?

りらさん:工房は群馬県高崎市上里見町にあります。ここは元々「群馬郡榛名町」だったのですが、平成18年(2006年)に高崎に合併されました。近くには榛名湖や榛名山があり、とても自然豊かな場所です。(工房名もはるなが付いているので、合併後、地名が榛名でなくなって悲しい…)たくさんの偶然が重なって、この場所に工房をかまえることになりました。
私はこの場所からほど近い高崎市内の出身で、学生時代は陶芸を学ぶために県外・海外へ行きました。その後、自分の轆轤(ろくろ)と窯を持つために実家へ戻り、資金集めのためにタクシー運転手をしばらくしていたこともありました。
ある時、たまたま乗ったお客さんと身の上話をしていたら、その人が清水建設の設計士さんで「いつかあなたが工房を作るときは、私に設計をさせてください」と言ってくれました。

ありがたい申し出だけれど、今はお金がないからまだまだ先のことだろうなぁ〜と思っていた矢先、実家の土地が区画整理で移動となり、資金もいくらから入ってくることになったのです。父が亡くなっていたこともあり、母との住宅兼工房を今の場所に建てられることになりました。その設計士さんにも工房の設計をお願いすることができました。本当にいつ何が起こるかわかりません。


鉄砲玉のような 迷いのない子供時代

ebichileco:設計士さんとの出会い、そしてその後の流れがすごいですね(笑)
今の場所に辿り着くまでのお話もお伺いさせていただきたいのですが、高校進学の際に、早くも陶芸の道を志して県外の学校に進学されていますね。きっかけはどのようなことだったのでしょうか。


りらさん:中学生の頃は、将来は美大に行って日本画を専攻してみたいと思っていました。予備校に通うなどして、人並みに絵の勉強をしていました。しかし、予備校のスタイルが自分に合わないと感じていた時に、知り合いから彫刻家の吉田光正先生を紹介していただいたのです。それから、吉田先生のアトリエでデッサンを個人的に週3〜4回教えてもらうようになりました。

先生のアトリエで、ある時、薄ピンク色の花器に出会ったのです。それを見た瞬間、体に稲妻が走った様に「陶芸やりたい!」と思いました。その花器は志野焼(美濃焼きの一種)で、作者は田部井健二先生という吉田先生のご友人でした。それを知り「絶対、田部井先生のところに弟子入りするんだ」と心に決めました。鉄砲玉のような迷いがない子供だったんです。

それを吉田先生に伝えたところ、「石の買い付けで岐阜に行くから、ついでに田部井先生のところに連れていってあげる」と言ってくださいました。やった!これで弟子入り確定だ!と喜んで吉田先生と2人で群馬から電車で岐阜まで伺ったところ、田部井先生に着いて早々「俺は弟子は取らない」と言われてしまいました。

しかし、どうしても陶芸がしたいと伝えたところ、当たり前のようにその後も面倒をみてくれました。「じゃあ、陶芸となると窯業訓練校だな!」と言って、田部井先生が一緒に石川県にある学校の見学についてきてくれました。

ebichileco:先生方が、とてもお優しいですね(涙)

りらさん:大人となった今だったら「いやいや、一緒に来ていただくなんてとんでもない!」って恐縮してしまいそうですが、当時の私はとてもずうずうしい子供で「弟子入り断ったんだから、面倒くらいみてよ〜」と思っていました(笑)
田部井先生はいつも口癖が悪く、私のことを「おめぇ」「ばっきゃろー」「いぬ」と呼んできますが、本当にすごく優しい先生なんですよね。

ebichileco:いぬ・・・(笑)

りらさん:今のご時世からしたら、びっくりですよね(笑)そんな田部井先生と見学に行ったのが石川県立九谷焼技術研修所で、とても綺麗な学校ですぐに入学を決めました。基礎コース1年、専門コース2年で合わせて3年間。私は高校を卒業して入ったけれど、社会人もいるような学校でしたね。在学中は、田部井先生の穴窯を手伝いに岐阜に行ったりもしていました。


自分が何を追い求めているのかわからずに向かった 異国の地オーストラリア


  • 留学時代。後ろは釉薬の先生のTony。

ebichileco:研修所を卒業されてから、オーストラリアの大学に行かれてますね。どんな思いがあったのでしょうか。

りらさん:九谷焼に愛着があったのですが、「何かが違う」と感じていました。ある時、輸入雑誌が多く置いてある丸善という本屋に行き、『Art and Crafts』というオーストラリアの雑誌に出会いました。海外のアートと陶芸の雑誌で、心惹かれるままに毎月購読するようになりました。ある月の広告で、現地の複数の大学が開催するオープン・デー(入学説明会)を発見し、「これだ!」と感じました。日本での進路に迷っていた私には、オーストラリアで陶芸を学ぶ道が一番しっくりきたのです。

オープン・デーに合わせて人生ではじめて降り立った異国の地。日本の33倍の大きさで、どうやって周ろうかと迷ったのですが、はじめにオーストラリア国立大学に行くことにしました。
そこにはオーストラリアに帰化した日本人の陶芸の先生が1人いらっしゃいました。京都府ご出身の女性の方で、オーストラリアには40年以上住んでいらっしゃいました。その先生にオーストラリアで私が陶芸をやりたいことを伝えたところ、「陶芸はうちの大学が一番いいわ!入りたいんだったら手配を手伝うわよ」と言っていただき、1校目でしたがそのまま入ることを決めました。日本に戻って研修所の卒業制作をすぐに済ませ、卒業式にも出ずにまたオーストラリアに戻ってきました。

ebichileco:すごい行動力ですね。オーストラリアというと陶芸のイメージがピンときませんが、どんなところだったのでしょうか?

りらさん:そもそも、なぜオーストラリアに行ったかというと、「自分と向き合う苦労」をするためです。“陶芸ができる環境”という観点から言うと、日本はとても素晴らしい機材(攪拌機や窯など)が揃っていますし、技法についても九谷焼の場合、赤絵・上絵・轆轤など、沢山の選択肢があります。

私は「陶芸」という道を決めるのが比較的早かったかもしれませんが、「陶芸の中の何をやろう」という部分でフラフラしていました。周りの友人はひとつのことをずっと続け、成熟している人もいたので、半端ない焦りを感じていましたね。はっきりと「私は赤絵!」と技術的な答えが見つかっているならともかく、自分が何を追い求めているのかわからずに、求めている。そんな状態でオーストラリアに行きました。

オーストラリアの授業では、さらに日本とは違うつらさが待っていました。「自分とはなんぞや」という痛いところを毎回の様に突きつけられる。私は自分のことが全くわからずに悩んでいたけれど、一方でオーストラリアの方は「私はこれが好きだからこれを作る!」っていう自分の意思がはっきりしていて、「自分らしい作品作り」が自然とできちゃうんです。
日本人は、作品の奥にある歴史や精神性を理由に「これが好きだ」と思う傾向があると思いますし、私自身、自分が作ることの意味を納得しないと作れないタイプの人間でした。日本の授業では、お手本があってそれに倣って制作していたけれど、オーストラリアでは「この技法を使って、あなたが作りたいものを作って」といった具合で授業が進む。そう言われてもどう作ればいいのか私にはわからなかった。なので、旅行もせず日々悩みながら課題に取り組んでいましたね。

また、現地でオーストラリア人とシェアハウスをしてみて、「やっぱり私は日本人だ」と思い知らされる出来事が沢山ありました。例えば、ある時シェアメイトが靴下の左右がちがう柄のものを履いていることがあって「左右違うの履いてるよ」って言ったら、「左右が違ったからって、死ぬんか?」っていわれたんです(笑)両方本気なんですよね。そういった他者との違い、文化の違いを実生活で感じながら、「自分とはなんぞや」に向き合う日々を3年間送りました。

自分で自分を大事する

ebichileco:日本に帰ってきてからは、どのように自分と向き合われていったのでしょうか。

りらさん:群馬に戻ってくるまでに、沖縄で働いたり、結婚、出産、そして離婚など、本当に様々な人生経験をしました。私生活の場所や環境が変わっても、変わらなかったのが、毎日陶芸をやり続けたこと。それは、自分で自分のことを信じる力を養うことにつながったと感じています。私は元々、必要以上に自分のことを卑下してしまう性格で、自分のできなさ加減に長い期間悩みつづけました。けれど、陶芸と毎日向き合ううちに、誰かに肯定してもらうことを求めるのではなく「自分で自分を大事にしなければ」と思えるようになりました。そういったマインドになってから流れが大きく変わっていった様な気がします。
陶芸家として生活ができるようになったのが、4年前くらいからですが、長い間続けていたからこそ、自分の目では見えていない人とのつながりが自然と広がっていったように感じます。KIYATAさんという人気の木工作家さんとの出会いもそうでした。作品コラボをさせていただいたことで、自分の作品も見ていただく機会が次第と多くなっていきましたね。


  • KIYATAさんとのコラボ作品

ebichileco:自分で自分を大事にする。とても大切にしたい姿勢ですね。英語だと「Good job me!」と自分で自分をほめる言葉があると聞いたことがあります。日本語だとあまりそれに代わる言葉がないかもしれませんね。

りらさん:そうですね。自分で自分を大事にしたらなんでもOKっていうことではなく、「自分の中に、いいところと悪いところが両方あって、それでいいんだ」と思うことだと感じています。「これから自分はもっと良くなる」という考え方ですね。
作品を窯から出すとき、その瞬間をとても怖く感じていた時期がありましたが、今は「何がきても私は大丈夫」と思える様になりました。失敗が出ても無駄に卑下しないし、逆にとても良いものが出ても過剰に自信をもつこともない。歳を重ねてすごく楽になったし、何が起きても受け入れられるようになってきました。

ebichileco:これから先、陶芸家としてどのように歩まれたいと思われますか。

りらさん:「自分が幸せだと、2軒先まで幸せになる」という話を聞いたことがあります。私は陶芸家なので、自分がつくった器で、自分自身、自分の家族、そして近くにいる人たちにも幸せの輪が広がっていけばいいなと思っています。手でつくるものだから、自分の感情が出るものだと思いますし、自分が感じた「嬉しい」「楽しい」というポジティブな気持ちが、作品を手に取った人にも伝わって、その周りの人にも広まったら嬉しいですね。これからもそういう陶芸家を目指したいと思っています。

ebichileco:素敵な姿勢ですね。学生時代の自分に対してかける言葉があるならば、どんなことを伝えてあげたいですか?

りらさん:「素直に」ということでしょうか。まわりに無理に合わせようとしたり、謙虚でいなきゃ、いい人でいなきゃ、空気を読まなきゃと思うのではなく、自分を素直に出せたらいいですね。基本的に「そのまんまでよし」と伝えたいです。

ebichileco:学生時代に陶芸家を志したりらさんが、多くの素敵な大人たちに自然と巡りあって、そしてあたたかく見守られてきたからこそ、りらさんご自身もそのまんま自然体な大人になられたのだなと感じました。人生のターニングポイントに、安心して話せる大人がいることはとても大切だなと思いました。

りらさん:そうですね。大人になってからも田部井先生に「おめぇはすごくねぇけど、陶芸はすごいから大丈夫だ!」と言っていただいて、全然褒めてないけど、なんだかんだ褒めてくれる(笑)無条件に安心して話せる大人が近くにいるのは本当に有り難いですね。自分も人を支えられる大人になりたいです。

ebichileco:私はまだまだ教えをいただいている側ですが、そういう大人になれる様にがんばりたいです。今日は本当に本当に、貴重なお話をありがとうございました!


タイトル写真:photo by Piro Photo Works 横山博之
聞き手・文:ebichileco

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OTONA WRITER

ebichileco / ebichileco

ebichileco(えびちりこ) 一般社団法人TEKITO DESIGN Lab 代表理事/クリエイティブデザイナー 立教大学社会学部を卒業後、商社系IT企業勤務。2015年チリに移住し、デザイナー活動を開始。「社会課題をデザインの力で創造的に解決させる」を軸に、 行政・企業・個人など様々なパートナーと組みながら、事業を展開している。