1986年東京生まれ。育英高専デザイン科を卒業し1年間デザイン会社に務める。社会人として能力の足りなさを痛感し、武藏美術大学芸術文化学科に編入を希望するが不合格。京都造型芸術大学に編入。そこで初めての京都弁に拒否反応を示し、1年間ほぼ誰とも口を聞かない状態で生活。「やっぱムサビ行った方が経歴が華やか」と思い、今度は一番入りやすいと踏んだ基礎デザイン学科の編入試験を受ける。志望動機など皆無なので面接では基礎デのパンフを暗記し、質問には暗唱で返答する。原研哉教授に「君の言葉は宙に浮いてる」とご指摘を授かる。しかし「かわいそうだから(本当!)」という理由で奇跡の合格。武藏野美術大学基礎デザイン学科編入学。2011年に卒業。卒業後は、イラストレーターをしたり、取材文を書いたり、何かデザインをしたりと、「頼まれたら全部やる」の精神で日々生活を営む。自分の中では全てのジャンルにアマチュアなのでクリエーターごっこをしてるようだと分析している。そして、他人から見れば無職だろうと認識している。
「就職活動はしなかったのか?」と美大生の方が気になっているかもしれない。答えは「YES」全くしなかった。「何故、しなかったのか?」要するに働きたくなかったのである。学生モラトリアムを延長したいという想いは確かにあった、ただそれ以上にシンプルに「働きたくない」というクソみたいな念が身体を蝕んでいた。「表現者と名乗る以上は社会に属すべきではない」とかいう思想なんて全くの皆無で、もう一度書くが「ただ働きたくなかった」のである。
「類は友を呼ぶ」とは恐ろしく正しいことわざだ。働かない人同士は互いの傷を舐めるように徒党を組む。社会のレールからどんどんと外れていく。昼間からゲームをしたり、意味なく寝たりと、時間の無駄な潰し方を着実に学習していく。しかし、人間もバカじゃないから、無意味な徒党に価値がないと気がついたものから脱退していく。その正しい行動を残りモノ達はdisる。社会に属していない人間を肯定するのは、残りモノ同士の脆弱な連帯感のみだ。着実に重ねていく年齢と確実に減っていく銀行残高に恐怖する。
結果、ある程度の年齢になると「本当に働きなくない」という強い意識を持った人でない限り無職はできない。とどのつまり、社会との接点がないと人は耐えられないわけだ。僕も大学を卒業したのが24歳で、27歳までほぼ無収入でチンタラとやっていたから3年間しかもたなかった。あれほどに「働きたくない」と願っていた僕でも、「仕事をしたい」と願う毎日である。だから、今こーやって社会の端っこにでも属させてもらっているということは非常にありがたい。PARTNERみたいなちゃんとしたメディアで雑文を書かせていただくことも、とっても幸せなことだ。けど、こうやって一応の社会人リハビリをできる状態になれたのもある周りの人のおかげ。「友達にマジ感謝!」みたいな安いJ-POPみたいなフレーズを本気で唱えている。心の中で。
さてはて、特にプランもないまま一回目の原稿を綴ってきましたがドラッグから生還した男の手記みたいな内容になっちゃいましたね。元来は、明るい文章を書く僕なんですが自己紹介を兼ねると本来の薄暗い人間性が漏れる。期間限定の連載となるか、否今後も末永く書いていくことになるかは、これを読んだ美大生次第となるので今後ともよろしくお願いします。