坂東幸輔 / Kosuke Bando
建築家。1979年徳島県生まれ。2002年東京藝術大学美術学部建築学科卒業。2008年ハーバード大学大学院デザインスクール修了。スキーマ建築計画、ティーハウス建築設計事務所、東京藝術大学美術学部建築科教育研究助手、aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所を経て、2010年坂東幸輔建築設計事務所設立。徳島県神山町で空家再生プロジェクト「空家町屋」、徳島県牟岐町で「出羽島プロジェクト」を行っている。京都工芸繊維大学・文化学園大学非常勤講師。
松葉:「Outsider Architect」の第2回は、前回のゲストでもある古賀大起さんにも加わっていただき、建築家の坂東幸輔さんにお話を伺って行きたいと思います。前回の古賀さんとの対談に引き続き、この連載では「世の中を生き抜く術・勝ち残る術」について、ゲストと一緒に考えていきます。今回もロングインタビューとなりましたが、主に、以下の4つのトピックについて話をしていこうと思います。建築を軸にしながら、広く若手の建築家・クリエイターの「世の中を生き抜く術・勝ち残る術」を語り合いました。(前回の記事はこちら: https://partner-web.jp/article/?id=116)
1. 建築家が地域に継続して関わることの意義
2. 建築家の「王道パターン」は今
3. 建築家のミッションとは
4. これからの建築家像
1. 建築家が地域に継続して関わることの意義
お互いの「信頼」が積み重なり、言葉を超えたコミュニケーションができる感覚に
松葉:坂東さんは前回の古賀さんとの対談でも話題になった徳島県神山町において、地域に継続的に関わりながら様々なプロジェクトを実践されている建築家です。まずは坂東さんが考える建築家が地域に継続して関わることの意義に関してお話し頂けますか?
坂東:時間をかけて地域に関わることでお互いの「信頼」を積み重ねることが出来ることだと思います。言葉を超えてコミュニケーション出来るという感覚でしょうか。神山町のNPO法人グリーンバレーの大南信也さんは、神山が地方創生のロールモデルとなったことで、日本全国を飛び回り講演をされており忙しくなっているのですが、たまに「天の声」のようなかたちで、私たちに指令が来て、設計するチャンスを頂きます。細かい要望などは無く、むしろ面白いことを提案して、という感じで好きにやらせてもらえるようになりました。私たちもまだ神山の名前がそこまで全国区になる前から知っているので、ブームに惑わされず今の神山に必要な提案が出来ると思います。以前リノベーションさせて頂いた神山バレーサテライトオフィスコンプレックスで何かしたいんだけど、というお話を頂き、クリエイターの多く集まる神山町なので、デジタルファブリケーションを中心としたものづくりの学校を作る「神山メイカーズ・スクール」という提案をしました。とても気に入って頂けたようで「神山町全体を学校にする」と早速色々な場所でお話して下さっているようです。
古賀:言葉を超えてコミュニケーション出来る事は大変魅力ですね。長い期間を経て積み上げてお互いの理解が深まったからこそ辿り着く信頼とは即ち目指すべきビジョンを共有出来ている事かと感じます。またそれは地方と都市部という適度な距離感があるからこそ、地元の動きだけに捕われること無く、新しいことが提案出来るだろうという期待もされているのかもしれません。しかしながら、一方で地域と密接して関わる事が弊害と成る或は浮かび上がる短所というべき事柄をもあるかと思います。例えば、まちづくりなどに関わる事は直接的な利益を算定し難いケースが多いため、どうしても仲が良く分ボランティア活動の一環と扱われてしまう事が多く見受けられます。活動の対価を頂く為にも何かしらの一線を設ける事が必要に感じますが、どのように思われますか?
坂東:やはり葛藤もあります。私たちが神山町に関わらせて頂いた時は、設計料はありませんでした。私たちも神山で活動することを楽しんでいましたし、神山のためと思っていたため設計料が必要だと思っていなかったのですが、活動の規模が大きくなり、企業からの設計依頼で設計料を頂ける場合は活動出来ますが、無償で活動することのリスクも見え始めています。まちづくりを長く行うコツは楽しむことだと思います。しかし、大きく活動するには予算が必要・・・とジレンマを感じることが最近は多いです。ただ、それでも経済的に成り立たないから、活動やめます、ということにはしたくないですね。アーティストにもあることですが、お金を生む「作品」を作るべきか、お金は別のところで稼いでそのお金で「作品」をつくるべきか、という葛藤にも似ているのかもしれません。ただ、前提にはマチへの「愛」が最も大切だと思います。
松葉:坂東さんとは昨年AKITENで主催したトークイベントにゲストでお越しいただいたのがご縁で、その後ご一緒させていただく機会があるのですが、活動を拝見していると神山町への「愛」を強く感じる事が出来ます。また建築設計を通じて同じ地域に継続的に関わっていらっしゃるスタンスにもとても共感をおぼえます。自分の手掛けた建築と地域との関係や役割を熱心に語る建築は大勢いますが、その大半は建築作品の正当化であることが多いという印象です。ですが、坂東さんは地域に誠実に向き合っているという印象を受けます。 ただ、一方で最初は設計料が支払われていなかったという状況に対しては正直驚きを隠せません。もちろんよそから来た人間の一時的な金儲けの道具にされてしまう事はあってはならないと思いますが、地域に関わる人がきちんとした収入を得て生活していけないといずれはその仕組みや地域で築いてきたものが破綻してしまうと思います。
古賀:今までも多くの廃れて行く地方の町を見てきましたが、そこに住まう人々に見放されてしまうことから衰退が始まると思います。子どもは都市を目指して行き、そのまま都市で過ごしUターンしない。奥田英朗の「無理」という小説を思い出しますが、地方には皆に諦められているという本当に魅力が無い場所もある。そのような地方は当然、外部から見ても特に目指す対象の場所とも成らないのですが、一旦外部から認められると、移住者も増え、そこに住まう人々の意識も変わり、かつてそこに住んでいた人々が戻ってきたくなるような場所となって行くのだと思います。地方創生が叫ばれ地方に補助金が落ちておりますが、地方創生に必要な事はお金だけではなく、そのお金をきちんと使いこなして自立出来る仕組みを作り出すことだと思います。お金があったとしてもそれを地域の必要な所に使えないのであれば短期的な補助金バブルに終わってしまいますし、他の町の真似をするような提案にお金を使うのではなく、自らが住む場所を見つめ直しアイデンティティを確立する様な形で使う事が必要とされているお金の流れかと思います。ご当地のゆるキャラを作るよりもやるべきことは沢山あると思うんですが。先に挙げた目指すべきビジョンとは出来上がる風景だけでなく、その風景を維持する為の経済活動も含めて議論される必要があると思います。
2.建築家の「王道パターン」は今
かつての「王道パターン」ではない、自分自身の力で道を切り開いて行く
松葉:同い年ということあるのだと思いますが、特に坂東さんの神山での取り組や建築への関わり方に関心を持っています。僕の場合、20代で実務経験無しでいきなり独立してしまったために仕事がなく、出身地である八王子で活動していくしか選択肢が無かったというのが正直なところなのですが、坂東さんはどのような経緯で神山町での活動を始めたのでしょうか?
坂東:神山は私の実家から車で20分くらいの場所にあるので、子供の頃からよく親に遊びに連れていって貰っていました。川で泳いだり、キャンプをしたりできる自然豊かな場所というイメージでした。成人してからはじめて神山を訪れたのは2008年の10月です。ハーバード大学GSDを修了し、世界中の設計事務所のどこで働こうかと選んでいるうちに2008年9月にリーマンショックが起きました。ちょうどニューヨークに引っ越してきた直後で、アメリカ中の公共建築のプロジェクトがストップし、大手の組織事務所に勤める建築家達が次々と解雇される、という悲惨な時期でした。どの設計事務所にポートフォリオを送っても反応が無いので、途方に暮れてしまいました。
就職先が見つからないので、アーティスト・イン・レジデンスに参加して作品を作ったら注目してもらえるのではという藁にもすがる気持ちで見つけたのが、イン神山のウェブサイトでした。ウェブサイトの「神山に住む」というカテゴリーに1万円で古民家に住めるという記事を見つけて、神山で古民家に住みながらアルバイトで生計を立てつつチャンスを待つのもいいのでは、という甘い考えを抱いて神山を訪れました。そこでNPO法人グリーンバレー理事長の大南信也さんに出会いました。大南さんもスタンフォードに留学されていたので、アイビーリーグ出身者同士すぐに意気投合しました。ただ、古民家は紹介してもらえずに追い返されました(笑)後から聞いた話ですが、神山にはまだ若い建築家が活躍出来る場が無いのでもう少し外で頑張ってきなさいというメッセージだったそうです。
帰国の度に神山に遊びに行っていたのですが、2010年に東京藝大の教育研究助手になることが決まり、そこで始めて大南さんから学生を連れて神山で空き家再生をやって欲しいとの依頼を受けました。それが神山での活動の始まりです。
坂東:先日「アイドルと建築」というシンポジウムで松島潤平さんが紹介していたのですが、2006年4月号の新建築の隈研吾さんの「パドックからカラオケへ」という巻頭論文が掲載されています。革新的な住宅設計で成功し、小さな公共建築や民間の施設設計、大規模な公共建築を経て、海外へと進む建築家の立身出世ルートの崩壊について10年ほど前に書かれています。
私もかつては、留学や海外の設計事務所で働くことで、住宅設計というパドックを飛び越え建築家として華々しくデビューすることを夢見ていましたが、リーマンショックの直撃を受け180 度考え方が変わりました。大学や企業のような大きな力に頼らず、自分自身の力で出来ることをやっていこうと考えるようになりました。そういった経緯もあり、神山での空き家再生の活動はライフワークのようになりました。
松葉:今までの建築家の王道パターンをすごろくに例えると、せっかく良い目を出して進んで来たのに突然ふりだしに戻る的な感じだったのだと思います。ただ、そもそも旧来の王道パターンが通用するのか?というような気がしています。というのも、少し上の世代の建築家までは、建築に対する絶対的な信頼の下、その枠組みの中でどう戦っていくかというスタンスが主流だったと思うのですが、僕や坂東さんの世代、またそれより下の若い建築家は、そんなに建築を信頼しておらず、また建築と他の分野を横断するような取り組み方をしている人が多いなという印象を受けます。もちろん、建築に対する想いはそれぞれ持っていると思うのですが、一方で上の世代と自分たちは進むべき道が違うという事を意識しているような気がしています。
古賀:建築家すごろくが現代で成り立たない理由は住宅設計の機会も減っており、公共案件が減って来ている事、そして実績のない若い世代にチャンスが殆どないことが大きいと思います。設計プロポーザル等では同種の実績が求められていますが、独立した事務所では大きな建物の実績は当然なく、参加資格すらありません。稀にある参加要件が緩いものに応募するくらいしかチャンスが無いと思います。最近では大学の教員に成る事が現代の建築家すごろくのあがりになっているように感じられます。殆どの若手建築家の設計案件は民間一本で殆どの公共案件は諦めて、小回りを利かして大手が手を上げないような小さな案件で収益を上げる方法が殆どかと思います。小回りが利く利点を最大に活かして、建築家が必要とされている地方を行脚することが若手建築家の活路なのかもしれませんね。私がアルゼンチンで所属していてスーパースダカなどは各地に散らばる殆どのメンバーが小回りが利く設計事務所を経営しており、大きなプロジェクトはスーパースダカとして行う等して、世界的に発進力のある組織を作っていました。このような設計事務所のあり方も増えてくるのかなと感じています。
坂東:神山で活動するときは各自設計事務所を持っている建築家同士で「バスアーキテクツ」というユニットを組んで仕事をしています。「神山バレーサテライトオフィスコンプレックス」や「えんがわオフィス」などこれまで8つの建物の改修や新築の設計をさせて頂き、先日も新たに空き家改修の依頼を頂きました。大学生とのワークショップも毎年行っています。2010年に改修した「ブルーベアオフィス神山」はセルフビルドで行ったのですが、その工事がきっかけでsansanという会社の社長が神山町を気に入りオフィスを構えることになりました、高速ブロードバンド網の整った神山町にサテライトオフィスという考え方が生まれた瞬間です。現在は十数社がサテライトオフィスを構えたり、若いクリエイターの移住も増えたことで、日本のポートランドと呼ばれたり、地方創生のロールモデルとなったりして、にぎわいの絶えない町になりました。バスアーキテクツも神山の成長のステージに合わせて、大きなオフィスや宿泊施設などの設計を任されるようになりました。
松葉:坂東さんの歩まれている道は、今までの建築家の王道パターンからすると道から大きく外れてしまっているのかもしれないですが、一方で実はそれが坂東さんにとっての進むべき正しい道のような気がしています。そもそも世界で活躍してきた建築家は、皆その時代時代で自分自身の進むべき道を切り開いて来た人達ではないかと思います。少なくても人の歩みをただなぞって来ただけでは無いはずです。さらに言うのであれば、時代によって王道パターンも変化するはずです。そう考えると、人がつくったすごろくをうまく進んで行くのではなく、マス目を描きながら進んで行くというように、すごろくそのものを自分でつくっていく必要があるのだと思います。
3.建築家のミッションとは
「建築による社会貢献」
島の未来を考えるワークショップから地域の産業と結びついた活動まで
松葉:最近は神山町だけではなく徳島県内の他の地域にも活動が広がっているとのことですが、その話を聞かせていただけますか?
坂東:先ほどの「パドックからカラオケへ」の中でも住宅設計の「郊外」というフィールドが変質しつつあると述べられていますが、現在の建築家の中心的なフィールドは「地方」に移っていると言ってしまっていいと思います。私の建築家としてのミッションは、ハーバード時代に叩き込まれたのですが、建築による社会貢献です。これからも神山には関わっていこうと思いますが、活動のフィールドを神山町に限定せず、生まれ故郷である徳島県全域で人口減少に悩む地域に建築家として貢献したいと思っています。
今年から関わらせて頂いているのが、山間部にある神山町とは対照的な、海の町牟岐町にある出羽島という有人島です。人口が70人、ほとんどが高齢者で、空き家率も2/3以上、未来の日本の地域の縮図です。出羽島には車が一台も無く、古い建物を壊したり新しく建てたりということが大変なので、明治期から昭和初期の古民家が多く残されています。島への交通手段は連絡船しかなく不便だけれども、不便なおかげで昔ながらの美しい町並みが残されているという、私にとっては宝島のような場所です。東洋文化研究者のアレックス・カーさんが同じく徳島の秘境・祖谷の集落に惚れ込んで、若い頃に古民家を購入し、今も祖谷の空き家再生に関わっていることは有名ですが、私も出羽島では自分でも古民家を手に入れ、自らがプレイヤーとなって活動していこうと思っています。
牟岐町の教育委員会からも空き家再生の依頼を頂き、牟岐町で活動する大学生と島民と一緒に島の未来を考えるワークショップもさせて頂いています。数年前からHLABというハーバードの大学生達が地域の高校生達にリベラル・アーツを教えるというサマースクールが行われているのですが、その会場のひとつに牟岐町に選ばれ、ハーバードのご縁もあり、私も関わらせてもらうようになりました。建築家が単純に建物をデザインするという仕事だけを行うのではなく、人々のハブのような存在になりつつあるなと感じます。
出羽島以外にも、林業家の施主から徳島県の木材の活用をテーマに様々な活動に参加させてもらったり、那賀町という林業の盛んな町で林業振興のための施設を設計させてもらったりと地域の産業や素材と結びついた活動も増えてきています。東京には高い技術を持った建築家は多くいるのですが、少ないパイの取り合いをしていてなかなか活動のチャンスが無い。クライアントも建築家の身の丈にあった仕事しかなかなか依頼してくれない。地方には技術を求める人達が多く、存在を知ってもらえたらキャリアに関わらず様々なチャンスが貰えることが多いと思います。
古賀:異なる地域で行われる活動は上空から見ればあくまで点と点の活動ですが、それらが坂東さんという建築家を媒介として結ばれていくことで有機的なつながりが更なる価値を見出して行ける、そんな事に成って行くと非常に面白いと思います。松葉さんの八王子で取り組まれているAKITENの活動も空き店舗をネットワークして行く事が面白いところだと思います。またAKITENのみならず八王子と群馬や金沢を繋げて行く等、建築を建てて終わりではなく、それぞれの地域が建築家を媒介として繋がっている事が非常に面白いと思います。例えば住宅なんかも一人の建築家が設計した施主が集まる機会なんてものがあっても良いかと思います。新しい建築家像のあり方へのヒントがそこに隠されているようにも感じますね。点と点を結んで線と成り、面としての強い影響力が出てくるようになれば、更なる展開もあると思います。
松葉:確かにAKITENの活動を通じて知り合いになった方、ご協力頂いた方とのご縁で八王子以外の地域での活動も増えてきており、仕事の面でも広がりを感じつつあります。一方でAKITENの活動そのものに関しては少し疑問を持ち始めています。というもAKITENの主な活動拠点はJR八王子駅の北口周辺なのですが、あまりにもエリアが広すぎて効果を実感するのが難しいと感じています。ここ数年の活動により以前に比べて街にクリエイティブなものが少しずつ増えつつあるも事実なのですが、まだ点でしか存在しておらず面になっていく気配を感じる事が出来ません。やはり活動の受け皿となるエリアが大きすぎるのかなという気がしています。もちろん視野を狭くする必要は全くないのですが、限られた期間・人員で一定以上の効果を生み出すためには適正な規模感というものがあるのではないかと感じ始めいます。今後はもう少しエリアを絞り込んだ上で活動して行く必要があると思っています。
4.これからの建築家像
建築分野においてはプレイヤーでありつつも、全体を俯瞰しながら仕組みを構築出来るプロデューサーとしての役割担って行く必要がある
坂東:冒頭でも少し話題に上りましたが、「地方」の未来を考える上で、自らお金を稼ぐということから目を背けてはいけないと痛感しています。助成金や補助金といった公的な資金に頼らずに事業を継続していけるかどうかがこれからの地方が生き残る上での分かれ道なのではないでしょうか。スキーマ建築計画に勤めている時は、施主が民間の方だったので補助金の類いはほとんど無縁だったのですが、地方での設計の仕事にはほぼすべてに公的資金が投入されています。プロジェクトのスタートアップの時期に補助金があるのは非常に助かりますが、補助金のために設計を変える、というような歪んだ要望が多いです。
人口が増え、国自体に力があった頃はそれでも良かったのかも知れませんが、人口が減少している今、補助金で地方経済を回していくというやり方にはいずれ破綻がきてしまうでしょう。神山では、こんな田舎で上手くいくはずが無い、と言われながらも始めたフレンチ・ビストロが大盛況です。出羽島でもその地域性や産業に、町並みの美しさや不便さといった特性かけあわせたような産業が生まれること望んでいます。島の人達に受け入れて貰えたら私自身が事業のプレイヤーになることも考えています。
出羽島プロジェクトのワークショップで島の未来について大学生や社会人、島の方とディスカッションを続けていますが、プランは沢山出てきます。神山町を始め海士町や西粟倉など日本全国でアイデアを実現している地域が沢山あるので、そういった場所を研究すれば他の地域でも使えるプランは見えてくる。でも、そういうプランをいくら披露しても実行する人がいないと絵に描いた餅になってしまいます。今後は建築家も設計や都市計画を行うプランナーとしてだけではなく、どんどん地域のプレイヤーになって活動していくべきだと考えています。
古賀:大学の研究でも同様だと思いますが、私はいつも建築家が継続的に地域に関わる事で他の建築家が関わる可能性を排除しているように感じていました。そうすると地域は特定の課題に得意な専門家が入って来にくく、結果として町にはマイナスなリターンとなる事もあるだろうと。特定の建築家と心中する町に成ってしまうように感じてしまう。しかし、坂東さんのお話を伺っていて、建築家が地方の活動をネットワークしながら継続してコミットして行く様な環境になれば、建築家が地方とともに生きるということも選択肢に成るのだろうと感じました。
なぜならネットワークされているという事は一つの失敗が全ての地域に伝わり、退路が断たれてしまうという事になってしまう。そういう状況下では、最善の策を求めなければ、地方が豊かにならず、結果自らに跳ね返ってくることになるので仕事の囲い込みではなく、適切な判断をせざるを得ない状況となる。これからの建築家には単に地方でプロジェクトを行う建築家とは異なって各地方の状況を繋げ、プロデュースしていくことも求められているように感じますね。
松葉:各々の地域で直面している状況・抱えている問題は異なるはずですし、そもそも建築の枠組みだけでは解決出来ない事の方が多いと常々感じています。ですので、建築という専門性を持ちながらも、他の分野も横断出来る能力が常に持っていたいと思います。そしてとりあえずやってみようかという行動力が一番重要です。自らが行動しないと気づかないことが多々あります。また、色々な地域を横断する事で俯瞰的な視点を持つ事で、一つの地域との関わりでは見えてこなかった課題解決の方法や、新たな可能性について気づく事が出来ると感じています。ですので、建築分野においてはプレイヤーでありつつも、全体を俯瞰しながら仕組みを構築出来るプロデューサーとしての役割も担っていけたらと思っています。
参考
NPO法人グリーンバレー
http://www.in-kamiyama.jp
ハーバード大学GSD(The Harvard Graduate School of Design)
http://www.gsd.harvard.edu/#/news/all-news/feed.html
「パドックからカラオケへ」論評
http://archiscape.lixil.co.jp/column/ienochi/vol04/page2.html http://www.archws.com/profile/publications/014.html
協力
テキスト:藤沼拓巳
写真撮影:松下美季
株式会社 TYRANT 代表取締役 / 一級建築士 ( 登録番号 第 327569 号 ) 1979年東京都生まれ。東京藝術大学大学院修了後、事務所勤務を経ることなく独立。人生で初めて設計した建物が公共の文化施設(旧廣盛酒造再生計画/群馬県中之条町)という異例な経歴を持つ。また、同プロジェクトで芦原義信賞優秀賞やJCD DESIGN AWARD新人賞などを受賞。