50年ぶりのムサビ、50年前のムサビ

2017年12月3日(日)

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今日はムサビ関係者向きの話かな。


12月2日(土)、こんな方々を学内案内してました。

1968年、つまり約50年前にムサビの商業デザインを卒業された先輩たち。

今から50年前、1967年は産業デザイン学科の中に商業デザイン専攻(略して商デ)・工芸工業デザイン専攻・芸能デザイン専攻(略して芸デ)がありました。(1964年には建築デザイン専攻もあったけどすぐに学科独立)
のちに商業デザイン専攻は視覚伝達デザイン学科(1974年)、芸能デザイン専攻は空間演出デザイン学科(1985年)となります。つまり視デの大先輩方ってことですね。

ちなみに「教室が足りなかった」という大学の都合ではあったんですが、当時は専攻ごちゃまぜで授業をやってました。それだけ聞くと「ひどいカリキュラムだな・・」と思っちゃうけど(笑)、先輩方は必ず「違う専攻の学生と一緒に授業受けたことが人生の財産」とおっしゃいますね。どの方も。
卒業して仕事をしてると、あちこちにムサビの友達がいることで非常に助けられたそうで、例えば建築やっててサインが必要なら商デの知り合い、内装は芸デの知り合いに声をかけられたし、どの打ち合わせに行っても知り合いがそこにいて話が早かったとか。
低学年で強制的に他学科の授業を受けるムサビのカリキュラムは、この頃の影響が大きいんです。


で、同窓会を毎年京都や鎌倉でされてて、今年の同窓会幹事になった、法人理事でもある宮崎晋さん(写真右から3番目)が「久しぶりにみんなでムサビに行ってみない?」と企画をたて、手羽に声がかかった、と。
宮崎さん以外全員50年ぶりのムサビ訪問。
今年手羽も卒業して初めてムサビで同窓会やって、みんなキャンパスの変わりように驚いてたけど、50年前となるともう別のキャンパス状態でしょうね・・。


・・今、サラっと書きましたが、宮崎晋さんとは昔から毎月理事会でお会いするので「いつも笑顔のおっちゃん」ぐらいにしか思えないのだけど、実は株式会社博報堂チーフ・クリエイティブオフィサーという、とっても偉い方だったりします。
永井一史さん、大貫卓也さん、岡田直也さん、谷山雅計さんも若い頃に宮崎チームで育てられた方々。「クリエイティブの博報堂」のイメージを作った方・・と言っても過言ではないはず。誰もが知ってるお仕事だと、黄桜「江川卓×小林繁」だったり、としまえんの「サンタフェの扉がやってきた!!」「プール冷えてます」「史上最低の遊園地。」あたりかな。

あ、この今年4月のとしまえん広告も久しぶりに宮崎さんがクリエイティブディレクターをされてます。ちなみに日清食品カップヌードル「hungry?」も クリエイティブディレクターは宮崎さんです。

博報堂関係者のコメント読むと、必ずってほど宮崎さんの話が出てくるんですよね。
モチーフの組み合わせを熟慮し、ニュースになるビジュアルを生み出す:広告朝日
水のように応じ、ワクワクを加え、迷ったら「明るい方」へ:広告朝日
普段は「笑顔の素敵なおっちゃん」なんですが(笑) 
 

ちなみに昨日まで視デが博報堂さんとのコラボ授業「マーケティングコミュニケーション」の展示をやってて、それをご覧になった宮崎さんは後輩たちの頑張りに嬉しそうでした。
ちなみにちなみに西原さんのまあじゃんほうろうきに出てくる「博○堂の宮崎さん」は違う宮崎さんだそうです。


こういう機会にしか聞けないのが、当時のムサビのキャンパスの話なんです。
先輩一人だけだと・・特にそういう話を聞くシーンって飲み会の場が多いから、酔っ払ってたり、記憶違いだったり、話が長いから聞き流したりで、そういう場での話ってあまり信用できなくて(笑)
「同時期に在籍してた10人から、シラフの状態で同時に昔のことを聞く」ってのが、ありそうでなかなか実現できない。いろいろ聞いてやる!!


まず皆さんの記憶で共通してたのが、

7号館が当時のデザイン棟でここで勉強したってこと。そりゃ自分たちの学び舎だから忘れるはずない(笑)8号館はまだなく、7号館横の階段とかも当時そのままだそう。
「対面にはアトリエ棟(現在の4号館)があった」のも皆さん共通見解。

ちなみに昨日7号館では、

こういうイベントをやってました。

それと「三角屋根の建物(現在の鷹の台ホール)の2階に学食があって、1階に画材屋があった」も皆さん一致してる。ちなみに昔の鷹の台ホールは中央にらせん階段がありました。
てなわけで皆さんの今回の最大の目的である、

「50年ぶりに学食で昼食を食べる」を実行されてました(笑)
ちなみに皆さん、リクルートや電通など広告代理店を定年退職された方ばかりでした。


その他だと、
・現9号館、10号館の場所にはバラック小屋みたいなプレハブがいっぱい立ってて、そこが工デの工房。その前には石彫場があった。
・現2号館の場所に女子寮があった

が共通見解で、女子寮(旧2号館)は約10年前に取り壊したし、石彫場等の写真も大学史にあるので手羽も知ってることなんだけど、ここからが人によって記憶が違うんです。

「美術資料図書館(現在の美術館)があった」「そんなのなかった」
「今の14号館あたりにプールとトラックのあるグランドがあった」「んなもんはない!」
「本館(現1号館)はあった」「うーん、わからん」
と意見が割れる割れる。
当時の写真を何枚か持ってきてくれてて、確かに1号館のところは建物がなく緩やかな崖しかない。

収拾付かないので皆さんの情報をまとめて手羽が絵にしたのがこちら。

つい皆さんが「広っぱ」とおっしゃるからそう書いちゃったけど、「原っぱ(広場)」ですね(笑)
もう少し前に卒業された方からは「木や竹がうっそうとしてて、空間作るために学生が授業の合間に開墾してた」ってのを聞いたことがあります。それが多分広っぱ。
ちなみに「タンパ」とありますが、「ダンパ」の書き間違えで、ここにあった食堂で、ダンスパーティ、略してダンパをよくやったそう。


実は・・・皆さんの記憶違いには理由があります。
皆さん間違ってないんですよ。

というのも、ムサビは1961年に鷹の台キャンパスを作ってるんですが、宮崎さんの学年・・1968年に卒業された方は「1,2年を鷹の台キャンパスで学び、3,4年は吉祥寺校」という世代なんです。1969年に鷹の台キャンパスに全学統合してるから、宮崎さんたちは3,4年を吉祥寺で過ごした最後の世代でもあります。

基礎の造形教育は広々とした鷹の台で学び、専門的な勉強は都心に近い吉祥寺・・という考え方によるもので(本当はまだ建物ができてなかったからだけど)、宮崎さんたちも「ずっと田舎の鷹の台にいるより、高学年は都心に出やすい吉祥寺で勉強できて良かった。せっかく東京でデザイン勉強してるのに地方と変わらない田舎にいたんじゃ意味がない」とおっしゃってました。えーと・・今そうなんですけど(汗)

で。
美術資料図書館ができたのが1967年、1号館ができたのが1968年と、皆さんが吉祥寺校で学んでる時にこの二つの建物はできてるから、当時の記憶にないのは当たり前なんです。
サークルをしに3,4年も鷹の台キャンパスにちょいちょい来てた方は「美術資料図書館」「トラックのあるグランド」「1号館」が記憶にあった、と。謎はすべて解けた!

ただ、卒業式を美術資料図書館で実施したことを皆さん最後に思い出されました。
当時は1階の展示室で卒業式をやり、「国立音大の学生さん5人ぐらいが校歌を歌ってくれた。だって誰も校歌歌えないんだもん(笑)」と皆さん楽しそうにおっしゃってました。
その顔は学生の時の笑顔でした。


以上、そんな彼らを当時の理事長である

田中誠治さんが温かい目で見守っていたを知ってる手羽がお送りいたしました。

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OTONA WRITER

手羽イチロウ / teba ichiro

【美大愛好家】 福岡県出身。武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒。 2003年より学生ブログサイト「ムサビコム」、2009年より「美大日記」を運営。2007年「ムサビ日記 -リアルな美大の日常を」を出版。三谷幸喜と浦沢直樹とみうらじゅんと羽海野チカとハイキュー!と合体変形ロボットとパシリムとムサビと美大が好きで、シャンプーはマシェリを20年愛用。理想の美大「手羽美術大学★」設立を目指し奮闘中。