今回のドクメンタは、一言で表すなら「おりこうさんで小難しい」です。
そうは言っても市内のあちこちに作品が展示されているので、それぞれの建物や会場自体が面白かったり、突然街中でパフォーマンスに出くわしたり、美術の祭典らしい雰囲気はもちろんあります。正直、見てすぐ面白い!とはいかないかもしれませんが、恐れることはありません。Google翻訳などの助けと労力は必要かもしれませんが、少し説明があれば作品の世界に入っていけるし、国際美術展の「今」を感じることは間違いないでしょう。
まずは個人的に気に入った作品、気になった作品を幾つかご紹介!
事務用の机を縦に配置し、その間にピンと張ったセロハンテープを触りながら行ったり来たりするパフォーマンス。「触れる、動く、繰り返す」このシンプルな行為に何の意味が?と思いますが、もし自分が人を意識しないで同じことをやったら、または、どんな気持ちの時こんな動きをしたくなるかな?と想像することはできます。一瞬ナンセンスな行為ですが、私たちが”ふ”とした時に起こす行動、しかもそれを執拗に繰り返すことで、誰もが持っているある種の感情を無言で見せているような気がします。
壮大な風景、水の音、鳥のさえずり、草の擦れ合う音の中、枝や木の葦で動物の頭部を表した、原始的なマスクを被って踊っている映像作品。野性的でもありつつ、動きはさながらコンテンポラリー・ダンスのようでもあり絶妙なバランス!今回考える作品が多い中、スカッとして、それでいて動物・人間・伝統・現代など色々なキーワードが浮かびつつ、感覚に直接訴えてくる作品です。
南米のとあるジャングルの中にある家で、母娘の日常を見せる映像。娘が拙いドイツ語で母親に話しかけているのを聞くと、母親はユダヤ系で戦争時代に亡命したのかな?と歴史が見えてくるし、それとは別に、年老いた母親の面倒をみる娘という何処にでもある親子関係も見えてくる。特に何が起こるわけではないけど、このさりげない中に色々な層があり、なんとも言えない情緒的な感覚に陥ります。
映像作品に出てくるElisabeth Wild(母)とVivian Suter (娘)は、二人ともアーティストで、彼女たちの作品も、今回それぞれ別の会場に展示されています。そして少々ややこしいのは、映像を撮ったRosalind Nashashibiが描いた絵画もさらに別の会場にあり、しかも彼女の作風はVivian Suterから影響を受けているのか、そっくりなので一瞬戸惑います。正直、Nashashibは絵画を見せる必要があったのだろうか?とも思うのですが、そもそもなぜ彼女がVivian Suterに焦点をあてたのか?そちらに興味がいきます。映像と被写体の母娘、またはNashashibiの絵画作品を、全く別の場所にそれぞれ独立して展示したのは、展覧会として広がりが出て成功しているのではないでしょうか。ちなみにRosalind Nashashibiはターナ賞2017の候補者の一人です。
メイン会場であるフリデリチアヌム美術館。Bill Viola(ビル・ヴィオラ)から無名な作家まで、約80人近い作家の作品が展示されています。ここでは美術館内の個々の作品より、「アテネの国立現代美術館(EMST)の所蔵作品を持ってきた」ことが一番のポイント。
でも唯一触れておきたいのは、フリデリチアヌム美術館の地下!建物を正面から見たとき、左側にある地下への階段を下りて行きます。ここが入り口。
手探りで前へ進まなければならないほどの暗闇。その中に入っていくと現れる映像作品。何部屋かあり、それぞれの部屋にそれぞれ違う映像が流れています。宝石や炭鉱などの採掘労働者に焦点をあてたもので、ハードな肉体労働と、彼らの夢、不安、家族への思いを語る、それを観覧している私たちも湿気のある暗闇の中で見ているので臨場感たっぷり。インスタレーションとしてとっても巧くいっている作品です。
今回展示会場として面白いのが、地下にある旧中央駅ホーム。その地下ホームから外へ出ると見える「XAIPETE! 」(ギリシャ語でようこそ!という意味)という標識とサウンドインスタレーション。第一次世界大戦時、ドイツ軍はギリシャ兵7000人を捕虜として拘留。しかしギリシャは中立な立場を示していたので、表向きは”ゲスト”として収容。捕虜とゲストの中間というなんともおかしな立場で拘留されていたギリシャ人は、収容所内で彼ら独自の新聞を作ったり、ドイツ人学者は彼らからギリシャ方言や伝統文化、音楽などの収集に取り組んだらしいです。その時録音されたギリシャ民謡レベティコも展示場所で流れています。薄暗い場所から明るみに出たところにある”ようこそ!”の一言。設置場所も内容に合っているし、看板一つに多くの意味が含まれていて、今回のテーマ「アテネから学ぶ」に最もふさわしく、巧く出来ているなと思う作品。
世界各国で何かしら政治的に読むのを禁止された本で表面を覆っている、パルテノン神殿を模した巨大建造物の作品。メイン会場の広場にあって、今回のテーマからしてシンボル的な存在です。本のリストはだいぶ前から発表されており、その本を持っている人に寄贈を促しているのですが、ご覧の通り6月に訪れた時点で片面半分は埋まっていませんでした。この作品は1983年にブエノスアイレスで発表されたものの復刻版。作品そのもののアイデアは素晴らしいと思いますが、当時アルゼンチンの軍事独裁政権崩壊など時代背景があっての作品。私たちがそのコンセプトを理解しても、訪れる観客とどこまで意思疎通、参加モチベーションを与えられるのか?
今回、全てにおいてキュレーターチームのコンセプトが先走り、独りよがりになっていて、観客置いてけぼり状態が多いと感じることが多く、この半分しか仕上がってない建造物がある意味、今回のドクメンタを象徴的に表していると思います。
どこまで展覧会としてみせる意味があるのか?
政治色の強い作品はそれらを通して、何が起こっているんだろう?どういう意味なんだろう?と、その国の事情を調べるきっかけになります。展覧会を見た後、気になった作品の背景を個人で復習しないといけないかもしれませんが、それが今、一つのアートの形です。
しかしながら、ドクメンタのような大型国際美術展で復習を必要とするテーマを取り扱う難しさも感じざるを得ませんでした。
政治的、もしくは具体的な文化・歴史を扱う作品で、作風が弱く、解説を読んで初めて理解できるとなると「これだったらネットでニュースを読めばいいのでは?」と思ってしまいます。
しかし、どんな作品も作家は絶対に何か考えて制作しています。だからこそ、作風に惹かれなくても、内容をすぐ理解できなくても、その作家の他の作品を見れば分かってくることだってあるかもしれないし、ドクメンタへ招待されたのにはそれなりに理由があるはずです。見た作品一点だけでその作家のことを決めつけるのは避けるべきでしょう。
そして今回のドクメンタでは150人以上の作品が出展されています。限られた時間内で、個々の作品をどこまで深く掘り下げられるか?それは大型美術展全般に言えることだと思いますが、政治色が強く、説明を読まないと理解できない作品を多く扱う場合、どこまで展覧会としてみせる意味があるのか?という問いが残りました。
少々辛口に書きましたが、それでも訪れる価値はあるドクメンタ
アーティストの立場から見ると、コンセプトが強すぎて、作品が展覧会の小道具化することには疑問を感じます。
今の世界情勢など、時代の流れを取り入れ考えるのは決して間違いではありませんが、ただ現状を映すのではなく、その一歩先の提示を見せてくれるといいなって思います。それはアーティストとして、その前にひとりの人として私自身にも跳ね返ってくることで、あらゆる状況で「辛い」を見せるより、その状況の一歩先を考えたいなと。
こんな感じで展覧会を見たときの感想は人それぞれ。そのときの状況や経験によっても見方が変わってきます。見て何かを感じている自分を振り返ることができたら、それが一番の収穫ではないでしょうか?そういう意味で大きな国際美術展は作品を一度にたくさん見れて、色々と自分の気持ちや考えが揺さぶられる機会。特にドクメンタは日本ではなかなか体験できない規模なので、気に入ろうと気に入らなかろうと展覧会を通して自分を知る良い機会だと思います。
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(執筆・撮影:金原明音)
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