アーティスト・イン・レジデンス in タンザニア 〜 マサイ族サラへのインタビュー

寒くて暗い北欧の冬から逃避して、アフリカ南東部のタンザニアに来ています。ここで二週間、制作のためのリサーチをしています。タンザニアの「アーティスト・イン・レジデンス」は、なんとマサイ族との共同生活!そして、タンザニアにもいました、素敵な女性。レジデンシーを運営するマサイ族サラが、自身の凄まじい人生経験について語ってくれました。

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ジャンボ!タンザニアに来ています

アフリカ南東部に位置するタンザニアに来ています。タンザニアといえば、キリマンジャロ、ビクトリア湖、サファリなどで有名です。スワヒリ語と英語を公用語とし、キリスト教徒とイスラム教徒が半分ずつを占めています。因みに誰もが聞いたことのある「ジャンボ」という挨拶は、スワヒリ語で「こんにちは」という意味で、「シジャンボ」と言って挨拶を返します。

私がタンザニアを訪れるのは、今回が二度目です。
前回は2011年。憧れのアフリカの地を踏むということに、希望を胸いっぱいに膨らませて臨んだ旅でした。スウェーデン人の友人と共に「アフリカに行きたいね」という軽い気持ちから始まって、「どこに行こうか」と地図を広げ、民族博物館に足を運んで学芸員の方々と話をし、「アフリカ」というキーワードをもとに知り合いからコンタクトを募り、最終的に「女性が纏うカンガというテキスタイルをリサーチする」という名目で6週間タンザニアに行くことになったのです。
結果、タンザニアの都市を4箇所まわり、現地の女性にカンガについてインタビューしたり、学校を訪問したり、テキスタイルの工房やカンガの工場見学をしたりと、なかなかアクティブで有意義な時間を過ごしました。


  • タンザニアの女性が纏うカンガ。色とりどりのパターンとスワヒリ語の諺がプリントされています

タンザニアでのかけがえのない鮮やかな経験は、その後の私の人生に大きな転機をもたらしたほどだったのですが(私の作品に政治性が帯びてくるようになったのは、この旅の後からなのです)
当時の私は、その貴重な体験をアーティストとしてどう作品に落とし込めばいいのかわからず仕舞で、旅を終えて暫く経っても、リサーチ素材のほとんどが宙ぶらりんのまま、ハードドライブの中に眠っているという状態だったのです。

一昨年あたりから、もう一度タンザニアに行って、自分の研究テーマを再び深く掘り下げたいなと考えて始め、齷齪しながらリサーチプランを作成しました。
そして昨年念願叶ってスウェーデンの財団から助成金がもらえることとなり、タンザニア北部のアルーシャにあるWarm Heart Art Tanzaniaというアーティスト・イン・レジデンスで、滞在/制作できることとなったのです。



アルーシャの「アーティスト・イン・レジデンス」

現在私が来ているのは、タンザニア最大の都市ダルエサラームから、バスで10時間のところに位置するタンザニア北部のアルーシャ。人と車で溢れかえるダルエサラームに比べると、涼しくて穏やかな過ごしやすい街です。


  • アルーシャの市場の様子

その中心部から車で15分ほどの村に住むマサイ族の家族のゲストハウスが、私のレジデンシー。
泥と牛の糞で固められた壁にトタン屋根をのせたシンプルな住居と、牛とヤギの家畜小屋が並ぶコミュニティー。その一画のゲストハウスで、二週間滞在/制作しています。
因みに電気は通っているのですが、水道水はナシ。飲み水は市販のペットボトル、トイレとシャワーは貯水でまかなっています。慣れてしまうと意外と平気で、自分で自分の適応力にビックリしています(!)。
今や世界的に有名なマサイ族ですが、タンザニアの人々は皆何かしらの部族に属していて、その数多くの部族の一つがマサイ族なのです。テレビなどで見られるような伝統的な生活をしているマサイ族もいますが、彼らの多くが現代のライフスタイルに適応していて、他のタンザニア人と変わらない生活を送っています。


  • マサイ族の家族と生活を共にするアーティスト・イン・レジデンス



マサイ族サラへのインタビュー

このマサイの家族を取り仕切るサラが、私のお世話役。
「スタイル抜群」「英語が堪能」「生粋の働き者」「オープンマインド」な彼女。
てっきり20代の独身女性かと思いきや、成人した二人の子供をもつ44歳のお母さん。
マサイ族は、元来受け継がれている自然の薬の知識があって、健康で長生き。更に乗り物を使わずに「歩く」民族ということから、足腰が非常に丈夫だそうです。これぞまさに「天然のアンチエイジング」。私にも是非引き継がせてほしい......

若々しいだけじゃなく、とても逞しくパワフルなサラが、何気なくしてくれた身の上話があまりに壮絶で波瀾万丈で、これは書かずにはいられないと思い、「インタビューさせて!」とお願いしました。

厳格なお父さん

彼女の驚きの話は子供時代から始まりました。

「うちの父はとっても厳しくてね。子供の頃は、朝3時に起こされて、歩いて45分のところまで草刈りに行かせられたのよ。その草をヤギに与えてから学校に行ったの。学校で私一人、ヤギ臭くって恥ずかしかったわ。」

「アフリカ」というと何となくゆったりのびのびと生活しているイメージがあったのですが、マサイの人々の規律はとても厳しく、彼らは根っからの働き者。しかもこのお父さん、子供たちが学校から帰宅した後も、毎日子供たちのノートを隅々までチェックしていたのだそう。更に、夕方は水運びの手伝いをさせられていたというから、まさに朝から晩まで休みなしの子供時代だったのです。

そのサラのお父さんは、朝4時に起床して、弱火で一時間かけてお茶をわかすというこだわりがある「スペシャル」な人。今でも毎日自分の決めたルールにきちんと従って元気に生活している94歳の老紳士。このお父さんの気丈さをしっかり受け継いでいるサラの更なるクレイジー話は続きます。

「高校に通っていた18歳の頃、妊娠したの。でも、周りには妊娠を隠して、学校に通い続けたのよ。両親は忙しかったから、うまく隠し通せたのね。出産の一週間前にようやくバレたんだけど。」
という彼女の言葉に、思わず耳を疑って聞き直してしまったのですが、「本当よ」と頷くサラ。

「相手の人はマサイ族じゃなかったの。父はマサイの人との結婚しか許さなかったから、両親が代わりに子供を面倒みるってことになって。子供と離ればなれになるのは辛かったけれど、仕方がなかったわ。」

つまりは両親の反対を押し切って、駆け落ちしてしまったサラ。両親の家の近くに住んでいたので、まるっきり子供に会えなかったわけではなく、毎週末に妹さんがお父さんに内緒で子供を連れてきてくれたそうです。それにしても、まだ若かった彼女が自分の意志を押し通すことは並大抵のことではなかったに違いありません。


  • マサイ族の衣装を着たサラ。この美しいネックスレスはとても高価なもので、「友人に貸したら返ってこなかった」のだそう......


夫の裏切りと新たなスタート

それから高校を卒業して、働き口を見つけて必死に働きながら二人目の子供を出産し、自分の手でその子供を育てながら、家事と仕事を両立させていた彼女。
ところが、実家を出てから8年、長年重ねた努力がようやく実を結びそうになった時節に悲劇は起こりました。
サラはコツコツ貯めていたお金と職場のボスからの援助で土地を買い、新しいビジネスを始めようと計画していました。しかし、彼女がその夢を実現させようとしていた矢先に、自分の夫に土地の権利をだまし取られ、全ての計画が台無しになってしまったのです。

「夫に裏切られて、土地を失って...... あの時は、頭が混乱して、もうどうしていいのかわからなかった。土地を取り戻そうと弁護士さんにも相談したんだけどね、結局駄目だった。でも、仕事場のボスがいい人でね。私を病院に連れていってくれて、カウンセリングを受けさせてくれたの。だから何とか回復して、また頑張ろうって思えることができたの。」

その後、夫との離婚を決意したサラは、厳格なお父さんに頭を下げて、実家で子供たち二人と一緒に暮らすことになりました。夫からの慰謝料もなし。まさに一から新しいスタートでした。
「とにかくまずは働かなくては」と、アメリカ人やヨーロッパ人の家庭の家政婦として生計を立て、そこで稼いだお金を子供たちの教育につぎ込みました。

「お腹をすかせている人がいたら、魚をあげるのでなくて、魚を獲る方法を教えなさい、っていうスワヒリの諺があるの。目の前のことだけじゃなくて、長期的に考えるのが大事だってこと。だから、私は子供たちの教育ためのお金は惜しまなかったのよ。」
と自信をもって話すサラ。


  • マサイ族にとって家畜は宝物

  • ヤギと牛と鶏と一緒に暮らしています



「女性も外に出て働かなくてはいけない」

教育への情熱に加えて、父権的なマサイ族の伝統に反発していた彼女は、「女性は家事だけしているのでは駄目。女性も外に出て働かなくてはいけない」という考えを強くもっていました。
元々料理に深く関心があったサラは、自身のキャリアアップのために調理学校にいくことを決意しました。パンとお菓子作りの技法を身につけた彼女は、ホテルで働いたり、学校で調理の仕方を教えたりと、仕事の幅を広げていったのです。
因みに私の滞在は、サラの手作りの食事付きなので、毎日美味しい料理を堪能しています。特に彼女のチャパティー(薄いナンのようなもの)は絶品!毎朝焼きたてのものをいただいています。

様々な職場でキャリアを積んだ後も、彼女の向上心は衰えることなく、「ビジネスウーマンになる」と一念発起し、自身でパンのビジネスを始めました。タンザニアの伝統的なパンだけではなく、クロワッサンや素材にこだわったパンを焼いて、ホテルやヨーロッパ人向けのお店に販売していました。
残念ながら、数年前に提携していた会社が倒産してしまい、彼女は事業を畳まざるえなくなってしまったのですが、現在は、フィンランド人のアーティスト、セッポと共にこのレジデンシーを運営しながら、次なるビジネスプランを練っているところだそうです。

辛かった過去の話をしている時も、一瞬たりとも険しい顔を見せなかったサラ。常にポジティブで全力投球の彼女は、最後にこう言いました。

「私は、他の誰のものでもない、『サラの人生』を歩んでいるの。誰かに頼るのではなく、自分で考えて自分で決めるのよ。」

このサラに会えただけで、「タンザニアに来て良かった」と思えるほど、彼女のストーリーは力強く印象深いものでした。私もこのリサーチを生かしてきちんと作品として発表できるように頑張らなくては!!
サラ、アサンテサーナ!!(サラ、どうもありがとう!!)

➜WARM HEART ART TANZANIA http://www.warmheartart.com/

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OTONA WRITER

HIROKO TSUCHIMOTO / Hiroko Tsuchimoto

1984年北海道生まれ。ストックホルム在住。武蔵野美術大学卒業後、2008年にスウェーデンに移住。コンストファック(国立美術工芸デザイン大学)、スウェーデン王立美術大学で勉強した後、主にパフォーマンスを媒体に活動している。過去3年間に、13カ国52ヶ所での展覧会、イベントに参加。昨今では、パフォーマンスイベントのキュレーション、ストックホルムの芸術協会フィルキンゲンで役員も務めている。