「芸術鑑賞」と「ランナーズ・ハイ」の意外な共通点

長時間走り続けると、ある時から超越した高揚をおぼえる事を「ランナーズハイ」と言います。 このランナーズハイが如何に、良い演劇、コンサート、展示や映画を観るたび感じる、「心が洗われる」感覚に似ているか?心洗われる感覚とはどうして起こるのか?そのメカニズムを知れば、自分の作品にも新しいインスピレーションが生まれるかもしれません。 私は、日本語訳がまだない洋書、Diane Ackermanの 《Deep Play》を以前、中国語訳で読んだ事があります。今回は、彼女が何を訴えかけ、どんな言葉を綴っていたか、ちょっと紹介したいと思います。【トップ画像】© “Touch” by Shura ( official video by Flight Facilities )

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日本語訳がまだない洋書、Diane Ackermanの 《Deep Play》を、以前私は中国語訳で読んだ事があります。

詩人でありエッセイスト、そしてナチュラリストの作者は母なる大地と宇宙に博識であり、また一方アマゾンで希少種の蝶や、南極のペンギンの保護と調査を、学術団体と共にしてきた人です。

著書の中で「身も心も地球の原始的な部分に近づくことにより、見えてくるものがある」、と訴えかける彼女の文章から、私たち現代人が、知らず知らずのうちに頭だけで物事を捉えてしまっていることに気付かされました。

私自身沢山の気付きを得た本書について、彼女が何を訴えかけ、どんな文字を綴っていたかを、私の視点で切り取り、少しですが紹介したいと思います。



心が洗われる、そんな感覚

良い演劇、コンサート、展示や映画を観るたび、「心が洗われる」感覚を覚えます。読者の皆さんにも身に覚えのある経験ではないかと思います。

この感覚は清々しさと混沌と共に、強い恍惚感と高揚感をもたらすものですが、一体どういったメカニズムで芸術鑑賞は皆さんの心を「洗う」のでしょうか?しかも、全員が同じ芸術鑑賞で、同じ「心洗われる感覚」になるわけではありません。だとしたらなぜ、鑑賞者の全員が「心洗われる感覚」になるとは限らないのでしょうか?

「心を洗う」というのは、いつでも出来る事ではありません。感覚と五感が最大限に研ぎすまされ、外部の刺激を最大限素直に、身をもって感じることが出来る状態にあることが条件なのです。自分の中にある受け皿が、外部のソウルフルな刺激を受けられるように感覚を開けた時、「心洗われる感覚」が生み出されるのです。

芸術と対峙する皆さんにとって、この感覚は体験として馴染みある事でも、こうしてその状態を分析したり考えてみたりすると、気付く事が多いのではないでしょうか。そしてまた、芸術鑑賞が人に与える体験について、再認識出来るのではないでしょうか。



「Deep Play」とは俗に言う、「フロー」であり、「ゾーン」である

Playは、日本語の「遊び」と完全に一致するものではなく、決められた時空の中で、規定のルールに沿って行われる、日常生活に必要性のない活動をいいます。

「日常生活に必要性のない」ことが定義に入っている様に、それは忙しさに押しつぶされそうになっている現代人が、忘れかけている事かもしれませんが、ゲームプレイはもっと広い意味でとらえられます。そしてその活動が起こりうる場所は、スポーツスタジアムのみならず、ステージや教室、珊瑚礁や寺院でもあり得るのです。それは、神聖なスポーツ対戦かもしれませんし、神聖な宗教的儀式かもしれませんし、神聖な授業中の白昼夢かもしれません。


  • 出典:pinterest
  • パルクール: フランス発祥の運動方法で、走る・跳ぶ・登るなどの移動動作で体を鍛える方法。周囲の環境を利用した身体動作でどんな地形でも自由に動ける肉体と困難を乗り越えられる強い精神の獲得を目指す。

Deep Playは、活動への喜びが、狂喜や恍惚に近くなる状態の事です。普通に活動しているだけではなく、更に密に、その時にしていることに完全に浸り、集中し、完全にのめり込んでいる状態で、俗に言う「フロー」であり、「ゾーン」なのです。なので、Deep Playは活動そのものではなく、気持ちによって区別されるものであり、「何が起きたか」ではなく、「どう起きたか」が重要なポイントです。

ゲームが必ずしもDeep Playに到達するとは限りませんが、この状態になり易い活動はあります。例えば芸術の創作と鑑賞、宗教への没頭、そして比較的静かで、人ごみから離れ、浮遊感を覚えさせる環境で行われるスポーツ、例えばダイビング、パラシューティング、スキー、登山やランニングです。ここで、芸術の創造及び鑑賞が、如何にスポーツがもたらす高揚感と結びつくか分かるのです。

芸術鑑賞がもたらすエクスタシーは、ランナーズハイと似ている

ここからは私が本書を読んで思った事ですが、
ランナーズハイは、科学的に言うと、エンドルフィン(脳内麻薬とも呼ばれる)の分泌によるものとも言われています。エンドルフィンはドーパミンの遊離を促進させ、多幸感をもたらします。多幸感とは強い幸福感と、超越的満足感の事で、愛情による至福感、競技で勝利した時の高揚感、オーガズムがその例で、宗教的儀式や瞑想でも生じうります。


以前私は体脂肪率が異常に高かったため、運動に励んでいた時期がありました。
頻繁にジムへ通う以外にも、バイクをこいだり、ヨガもしていました。
感じたのは、徐々に減る体脂肪以外にも、有酸素運動によって、体中の隅々まで行き届いた酸素で細胞が息をしいている事や、ヨガによってもたらされる超越した満足感です。それは確かに、良い芸術作品を目の前に、五感で感じた「心が洗われる感覚」に似ているものです。

私がやっていたダイエットで感じることなので、真たるランナーズハイは尚の事でしょう。本書を読むまでは、芸術鑑賞によって生み出される、神聖ささえ感じさせるその満たされた感覚は、アートに限るものだと思っていました。ですが色気のない言い方をすれば、脳の働きは確かに、様々な超越感をもたらすアクティビティやスポーツと似ていて、感じられるロマンも満足も似ていますが、それぞれ違う発見を得られる新鮮なものです。


創作に息が詰まった時、無尽蔵だと思っていたインスピレーションが途切れた時、もうアートへの情熱が薄れたと感じた時、運動や瞑想など、違う形でDeep Playをしてみませんか?

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STUDENT WRITER

Moteki Yoshika / Moteki Yoshika

Japanese/Taiwanese mixed. A business student who love arts and science.